Medicine and Poison(薬と毒)
親鸞の言葉64:毒を楽しむためではない
薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。(薬があるからといって、好んで毒を飲もうとするなど、あってはならないことだ。)(『親鸞聖人御消息』第二通)
阿弥陀仏の本願によって、衆生はいっさいの区別なく救われるということは、くり返し出てきた。罪を犯した者も救われるのである。
それを曲解し、「いずれ救われるなら、罪を犯してもいいのではないか?」と考える人も出てくる。親鸞はそれに釘をしっかりと刺している。
そもそもそのような考えを持っている人が、本当の信心を得られるとは思えない。薬は毒を楽しむためにあるものではないのだ。
【 『親鸞100の言葉』 釈徹宗監修 宝島社 】
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阿弥陀仏は私たちを悪しかできない者と見抜いて、そんな私たちを救うという本願を立てられました。だからといって、決して悪を犯してもよいということにはなりませんし、それどころか、悪いことは努めてしないようにしなければなりません。そして、善を行おうとしても雑毒の善しかできない我が身を反省し、そんな私を救って下さる阿弥陀仏に報謝の気持ちを持つことが大切です。
釈師の言われるように、「薬は毒を楽しむためにあるものではない、と聖人は釘を刺しておられること」を重く受け取らなければなりません。
薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。
(We can take poison because we have medicine, which should never be
allowed.)