A Fool(愚か者)
親鸞の言葉18:愚かであることの自覚
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候(そうら)ひしことを、たしかにうけたまはり候ひし・・・・・・ (亡くなった法然聖人が「浄土の教えを信じる人は、愚か者になって往生する」といったことを、確かにお聞きしました。)(『親鸞聖人御消息』第十六通)
本来、仏教は知慧と慈悲を目指す道である。ところが法然は「愚か者になって往生する」と語ったようだ。そして親鸞は確かにその言葉を聞いたのである。ここでいう「愚か者」とは、おのれのはからいを捨てて、その身のままで阿弥陀仏へと任せることだ。
誤魔化したり正当化したりせず、愚か者であることをきちんと自覚するのだ。この言葉は親鸞83歳のときのものだが、法然の存在は晩年まで親鸞の根底にあったのだ。
【 『親鸞100の言葉』 釈撤宗監修 宝島社 】
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愚者、即ち「愚か者」の姿を親鸞聖人は自著の中で数多く述べておられますが、例えば『正像末和讃』の中には、このように仰っています。
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮(こけ)の行とぞなづけたる
このように聖人は「愚か者であることをきちんと自覚」されていたのです。そして法然上人自身も「愚か者」であると自覚されていたことを、親鸞聖人は確かに聞かれたのでした。
「愚か者」であるからこそ、その身のままの私を、阿弥陀仏は深いお慈悲の心で哀れみ、摂取して下さるのです。
従って、愚か者とは、もうそれ以上落ちることのない人であり、もはや崩れることのない安心を得た人であるとも言えるでしょう。( Therefore, it can be said that a fool
is a person who won’t fall any more and has got unbreakable ease any longer. )