花の姿にわが生を学ぶ( You Learn Your Life from the Figure of a Flower )
百花春至って誰が為にか開く 碧巌録(へきがんろく)
春になれば咲き、夏がくれば咲く花々。その美しさは、私たちの心を潤してくれるものです。ところで、咲き誇る百花は、いったい何のために咲いているのでしょうか。
花は誰かのために咲いているわけではありません。
杯に落ちる桜の花びらも、夏のひまわりも、ただ無心で咲いています。「あの花の方がきれいだ」などと考えることなく、ただ無心で咲いています。そして、種に戻って、新しい花を咲かせてくれます。考えてみると、花の美しさというのは、その無心さのなかにあるのですね。
私たちは歳を取り、力の衰えを感じるにつれ、自分の「咲き時」は終わったものと考えてしまいます。
しかし、人生という花はいくつになっても咲き続けます。それは青年期のような華々しいものではないのかもしれません。しかし山水画のように滋味溢れる、心にしみいる花をずっと咲かせることもできるのです。
【 『老いを生きる仏教の言葉100』 ひろ さちや 成美文庫 】
「花の美しさというものは、その無心さのなかにあるのです(The beauty of a flower
is in its innocence.)」。この言葉を聞きますと、心が洗われるようです。
妄念、邪念を離れて、無心に物事に取り組むことの大切さを感じます。でも、悲しいかな、煩悩具足の我が身、不都合なことがあれば長続きはしません。とは言いましても、このような花の存在は有り難いものです。反省の機会をいつも与えてくれるのですから。「山水画のように滋味溢れる、心にしみいる花をずっと咲かせる人生」、いいですね。花に学びたいものです。