慈悲の極み ( The Extremity of Compassion )
己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり / 最澄
自分自身のことなど忘れてしまって、ただ相手の利することを考えて行動する。最澄はそれこそが慈悲の極みなのだと説いています。
言い換えると、困っている人に手を差し伸べようとするときは、自分のことは忘れてしまうほうがいいということです。
私たちは何かにつけ、「やるからには見返りがあってしかるべき」と考えてしまいます。そして、よかれと思ってした行動について、期待した反応がないと「失礼なやつだ」と考えてしまいます。
慈悲とは他人の苦しみを自分のことのように感じて、手を差し伸べることです。自分が怪我をしているときに、見返りをもとめて手当てをしたりしませんね。痛いから消毒をする、絆創膏を巻く、ただそれだけです。
【 『老いを生きる仏教の言葉100』 ひろ さちや 】
阿弥陀仏の慈悲について『浄土真宗聖典』には、このように書かれています。
[慈悲] 苦を除き楽を与えること。衆生をいつくしんで楽を与える(与楽)ことを慈、衆生を憐れみいたんで苦を抜く(抜苦)ことを悲という。一説では、抜苦を慈、与楽を悲とする。
阿弥陀仏は「私たち凡夫の苦しみを自分のことのように感じて手を差し伸べて」おられます。抜苦与楽(ばっくよらく)という究極の慈悲で、衆生をいつくしみ、憐れんでおられるのです。
私たちも、せめて、阿弥陀仏のお計らいを見習って、他人の苦しみに手を差し伸べたいものです。( We would like to be kind enough to help others’ pains by following Amida
Buddha’s example. )