日々を気負いなく生きる ( Living Everyday without Bracing Oneself Up )
平常心是れ道 / 無門関
「道とはいかなるものですか」
弟子の趙州(ちょうしゅう)に聞かれた南泉禅師が答えたのがこの言葉です。平常心こそが道であるということですね。ただこれは、平常心を保つように努力せよということではありません。もし求めたりすれば、たちまち道は遠のいてしまう。そう南泉禅師は言っています。
あるがままに生きて、当たり前をきっちりする。日常をしっかりと、しかし気負うことなく生きる。そこに求めずして平常心はあるし、道ともなるということです。これは人間関係においても同じことがいえますね。
相手に好かれよう、気に入られようと思っていろいろやっても、逆にこびているように見られるだけです。
こびることなく、突っかかるのでもなく、ただ同じ娑婆世界に住む人間として、相手と付き合う。やるべきことはやって、やるべきでないことはやらない。そんなふだんの心構えが人間関係を変えていきます。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「気負う」の意味は辞書に、「自分こそはと意気込む」とあります。この意気込む気持ちを捨てて、平常心(=いつもと変わることのない平穏な心)で生きることの大切さが語られています。
「日々を気負いなく生きたいものですね。 (We’d like to live everyday without bracing ourselves up, don’t we.? )」