お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Ryokan as a Wondrously Excellent Person(妙好人としての良寛)

 良寛さんは念仏者でもあった。「草の庵にねてもさめても申す事 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」「良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏というと答へよ」。

 私が良寛さんを妙好人として挙げたのは、地位、名誉、財、権力に近づかず、慈悲と法楽に生きた、古来の妙好人たちとの共通性を感じたからである。「南無阿弥陀仏」という六字の名号の書もある。「いかにして誠の道にかなはんと ひとへに思うねてもさめても」などは宗派的セクショナリズムを越えた、大乗的な奥義を感ずる。

 良寛さんは、きっと願っているのではないだろうか。「世界中の人びとが平和で一緒にあそべますように」「世界中の内戦を早く止めてどの国とも仲良くしよう」と。

 人に救いと安堵を与える宗教が、戦争や大量殺りくの原因となっている。何と不思議で悲しいことか。モノを「持つ」時代から人間らしい心に「成る」時代に転じるべきだ。良寛さんも歌う。
 焚くほどは風が持てくる落葉かな
 われながらうれしくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思えば
 他力とは野中に立てし竹なれや よりさはらぬを他力とぞいう
 不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば何をこの世の思い出にせむ
    【 「妙好人めぐりの旅」  伊藤智誠  法蔵館  】


 良寛は禅僧、歌人、書家としてはよく知られていますが、ここで伊藤師が言われているように、念仏者でもあったという事実は、一茶と同じように、あまり知られていないのではないでしょうか。
 物の本によると、禅僧としての良寛の言葉に、「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ねる」がありますが、これは「妄想、煩悩を除く修行は、今やっていることに心を集中して、ほかのことを考えない」という禅の心を表わしたものだと言われています。私は良寛に対しては、このような禅僧のイメージが強く、実は念仏者でもあったということに驚いています。
良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏というと答へよ」という歌など、念仏者ならではの歌として、力強いこと、この上ないですね。信心の人にしか作れない歌ですから。
 尚、次の二首も良寛の歌です。
  み仏のみ法の道に仮だにも 契る心はうれしからまし
  極楽にわが父母はおはすらん けふ膝もとへ行くと思へば


My Impressions:
Ryokan is well known as a Zen priest, poet, and calligrapher, but he is little known
as a wondrously excellent person just as Issa Kobayashi is so. I am also surprised
to know the fact that he was a firm believer in Shin Buddhism. “ If someone asks you
whether Ryokan has the last words, tell him they are ‘ Namu-amida-butsu ’ .” I think
this is just like a tanka poem as a work by a great believer and that no one could
compose a poem like this without a person of shinjin.



          良寛和尚