To Fondly Chant the Name(ほれぼれと称える)
多く唱えるのは多く唱えねば救われぬと思うからではない。唱えて救われることの嬉しさにほれぼれと唱えずにおられないはずの自然の心理なのである。それのみを便りとして生きている者、それ以上の一大事がないと信じる者が唱名に余念がないのは、例はどうかと思うが、守銭奴が金を出しては数え直してたしなむのと同じ真理である。一度申して救われるのだから二度申す必要がないというのは単に理屈であって、人間の内なる心理作用と違っている。救われた事が嬉しくも、悲しくもないのなら、そういう事もあろうが、思うごとにしみじみと有り難いのなら、そのたびに念仏申さるるはずである。良寛の、
草の庵(いおり)に寝てもさめても申すこと 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
これは幾度誦しても飽きない感銘がある。
【 「法然と親鸞の信仰(上)」 倉田百三 】
先日、親戚の葬儀がありました。葬儀は故人との在りし日の思い出がよみがえり、心は悲しみでいっぱいになります。でも、この世の別れの悲しみの中にあればこそ、しみじみと有り難く称名せずにおれませんでした。そして最大の悲しみも、念仏があればこそ乗り越えていけることを改めて実感しました。( I realized again that I could
overcome even the greatest grief in this world by the very nembutsu.)