お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

My Contributions to the Newspapers(新聞投稿文)

 先日、物の整理をしていたところ、私が以前、気の向いた時々に新聞に投稿して、たまたま採用された時の新聞が出てきました。その新聞紙は古びて黄色く変色したり、まだあったはずのものが無くなったりしていました。せっかく採用された文を反故にするのも忍びないので、コピーをとって保存しようか、とも考えたのですが、この際ブログに載せておくことにしました。そうすれば、新聞の劣化も、紛失も気にせずに済みますから。以下は、その投稿文です。


●1994年(平成6年)11月 朝日新聞地方欄
731部隊展」の記事を読み思う 
 当県であった「七三一部隊展」で、金沢市の男性が勇気ある証言をされた事を十月三十一日付の本紙地方欄で知った。私はこの部隊展があることは知っていたが、行く気持ちにはなれなかった。以前、七三一部隊の実態をリアルに書いた森村誠一氏の「悪魔の飽食」を読み、人間の極限状態における残忍性を嫌というほど思い知らされていたからだ。
 高校時代に読んだナチス・ドイツユダヤ人虐殺を書いた「夜と霧」の内容と重なり、一層強烈なものとして心に残っている。
 戦争という異常事態で、上からの命令でやらなければ自分が危ないという状況に置かれたら、“私”はどうするだろう。きっと、七三一部隊の彼らと同じことをするのではないか。「さるべき業縁(ごうえん)のもよおさば、いかなるふるまいもすべし」と、冷静に自己の姿を内省した親鸞聖人の言葉を思い出す。
 自己を内省すれば、さかしらに他人の過ちを批判などできない。人間性をことごとく剥奪(はくだつ)する戦争は断じて避けるべきだ。そのために、部隊展で証言した男性は重苦しい沈黙を破られたのだから。


●1994年(平成6年)12月 朝日新聞全国欄
上手に褒めて世の中明るく
 例えば姑(しゅうとめ)が嫁の整理整頓の悪さを注意したくてこう言ったとします。
 「あなたは器量よしで、気立てもよい。明るくて、愛想よしで、人にも親切。その上買い物上手で、料理もうまい。ただもう少し家の中がきちんとしていたらもっといいね」と。すると嫁はまんざら悪い気もせず、姑の言葉を素直に受け取ることでしょう。
 これは褒める効用がいかに大きいかということで、人に一つ注意する時は、七つ褒めてからにした方がいいと聞いたことがあります。
 私などは単純だから、「この原稿はなかなかいいね。きっと採用ものだよ」とでも褒められようものなら、つい舞い上がって天井裏のネズミとでも遊びたくなりますが、そこは「豚は褒められても豚」と心得ているつもりですから慢心はしません。心が弾んで「よし、もっと頑張るぞ」とファイトさえわいてきます。
 ただ、「豚もおだてりゃ何とやら」という気持ちで褒めるのはいただけません。あくまでも良いものは良いと認めた上で褒めることが大切だと思います。概して暗いニュース、出来事で満ち満ちている世の中、ちょっとした褒め上手で、あちこちで“ポッ”“ポッ”と明るい灯がともることでしょう。


●1995年(平成7年)2月 朝日新聞地方欄
川柳 いつか載るお悔み欄を読んでいる
    (選評:○○さんの句、人の心を巧みに突いています)


●1995年(平成7年)3月 朝日新聞地方欄
時には立ち止まり人生考えて
 先日、机の上に「クラス一同より」と書かれた花束が置かれ、何名かの生徒たちの寄せ書きが添えられていた。一人ひとりの顔が浮かび、都合で卒業式に出られなかった事が悔やまれた。「先生の授業は好きでした。これからもその優しさを失わずがんばってください」という言葉には思わず嬉しくなり、かえってこちらが励まされる思いがした。
 高校三年間の彼女たちの成長ぶりは、人間的にも、学力上でも目を見張るものがある。ほとんどがそれぞれの大学へと進学していくが、これからの人生、どう生きたら幸せになれるかを考えてほしい。
 年配者たちが、ただひたすら突っ走った後で人生を振り返り、「何のために生きてきたのか訳がわからない」と嘆くのをよく聞く。こんなに残念なことはない。だから卒業していく人たちは、時には立ち止まり、「私の人生、これでいいのだろうか」ということも真剣に考えてほしい。
 きれいな花とすばらしい言葉を残していってくれた彼女たち、その前途に幸せあれ。


●1999年(平成11年)8月 ○○新聞(地方紙)
混迷時代こそ仏の教えを
 昨年の自殺者数は全国で三万八千二百余人、県内では二百二十八人と発表された。これは全国では一日当たり九十人、県内ではなんと二日に一人強の自殺率となる。
 自ら命を絶たねばならいほど“生きる”ことが苦しかったに違いないのだが、でもなぜ?と思わずにいられない。真宗王国と言われる当県だからこそ、なお一層その感を強くする。浄土真宗と言えば親鸞聖人が開祖であるが、その教えを学べばどんなに苦しくても自殺だけは絶対にしてはいけない、いやしたくないと知らされる。
 ところが、この恐るべき結果なのだから、浄土真宗の教えは全く生かされていないことになる。
 県内では仏壇を持つ家庭がとても多いと聞く。現代の混迷を極めた時だからこそ、先祖代々の仏壇の中身、すなわち浄土真宗の教えに、もっと関心を持ってはどうだろう。
 そうすれば、おのずと法を説く立場にいる人たちの責任は重大になる。七月十七日付本紙読者欄での山内氏の宗教家に対する言葉は厳しい。(多くの宗教家は)「なぜなりをひそめ、葬式と法事の機会に搾取だけして平然としているのだろうか」と。しかしこの山内氏の言葉は多くの人の代弁であるように思われる。
                                 以上です