お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Story of a Certain Wondrously Excellent Person(ある妙好人の話)②

            耳の聞こえない妙好人
 これはまだ近年のこと、山口県下松町というところに、口も耳も聞けない香林保一という妙好人がおりました。ある時、三尺独笑という医者が他力安心座談を試みました。
  (以下、三尺独笑を「三」、香林保一を「香」とします。)
三:あなたは何時から物が言えなくなりましたか。
:親の話では三才の時、二階から落ちて言えなくなったそうですが、生れつきでしょう。
三:そして耳も聞こえないのですか。
:一向に聞こえません。
三:耳もよく聞こえ、また自由に問える口を持ちながら、真に聞く人の少ないのに、あなたは宿縁の厚いお方ですね。
:耳に聞くから逃げてしまうのです。御法は耳に聞くのではなくて心に聞くものです。
三:それでは心にお慈悲が聞こえましたか。
:聞こえるまでもなく、聞かさにゃ置かぬの大慈悲を信じさせて貰うたのです。
三:因果仏の極楽に参りたいですか。
:お浄土にさのみ用事はないけれど、救わせてくれよの御親なら、お互いに参ってあげようじゃないですか。ねえ、お同行。
三:お浄土参りの同行なら真平御免。地獄行きなら同心しましょう。
:嫌でも自性なら、出た巣に帰るは当然じゃが、弥陀が邪魔して行かしてくれぬので困るのです。
三:その邪魔をする親爺どこにおるのですか。
:たった六字に細められて、逃げる此奴についておりまする。
三:ついているようなか弱い親爺が、生死の大問題を引き受けますかね。
:我のお慈悲か、お慈悲の我か。如何かな。
  【 「妙好人めぐり」第三集 平原暉也編集 文化時報社発行 】


 三尺独笑の耳も聞こえ、口も話せる人でも、真に仏法を聞く人は少ないのに、香林は宿縁の厚い人だと言ったのに対して、香林の返答はさすが妙好人と言われるにふさわしいものですね。「耳に聞くから逃げてしまう。御法は耳に聞くのではなく、心に聞くものです」と答えています。
 この香林から思い出される妙好人に庄松同行がいます。庄松は文字を読む力がなく、御文章をさかさまにして読むような人でしたが、「その中に何が書いてあるか」を尋ねる人に「庄松助けるぞ」と書いてあると答えたと言われています。
 ところで、この庄松については、「庄松音頭」(作詞:河西新太郎 作曲:大川一幸)という歌があります。この歌の二番の歌詞は次のようです。
  文字は知らぬが 心で誦(よ)んだ
  弥陀の教えを わが身につけて
  サッサとなえる 南無阿弥陀仏
  欲を離れて 仏の道に
  生きた庄松の 心意気
(「庄松ありのままの記」<非売品> 赤沢春海<勝覚寺>発行)
ここに、「心で誦んだ」と書いてありますように、庄松は三部経や御文章を心で読んでいたのですね。

 一般的にも使われる「心耳(しんに)」(心の耳で聞く、心で聞く)、「心読(しんどく)」(心で読む)という言葉がありますが、香林は「心耳」という言葉を、庄松は「心読」という言葉をそれぞれが実地に身につけて生きた妙好人と言えるのではないでしょうか。


My impressions:
Korin, a wondrously excellent person, could neither hear nor speak. When a doctor
Sanjaku told him he had deep conditions from the distant past, he replied to Sanjaku
that he heard Buddhist teachings with his heart, not with his ears. And another firm
believer, Shoma could not read at all because he was uneducated, but he read
Buddhist books with his heart.
Both persons, I think, were those who lived really religious lives worthy of being called excellent persons.