お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Ego Lurking in Love(愛にひそむ自我性)


 愛より愁いは生じ、愛より怖れは生ずる。愛を超えし人には愁いはなし。かくていずこにか怖れあらん。(『法句経』一六「愛好品」)                     
 というふうに、自分自身にとらわれ、自分に都合のいい人や事物を自分の所有物としたいと貪り求めてゆく心のはたらきを愛といい、愁いと怖れの原因とみなされてきたのです。 
……………………………………………………………………………
……………………………………………………………………………
 親と子、夫と妻、兄弟、友人をつなぐきずなは「愛」ですが、人を愛するという名のもとに、実は人を自分の幸福のための道具としてとりこもうとする自己愛であることがあまりにも多いようです。「私はあなたを愛します」というとき、多くの場合「あなたは、私にとって都合のよい存在です。私の幸福のためにあなたが必要なのです」といっているのではないでしょうか。もしそうならば、相手を愛しているのではなくて、自分の幸福を実現するための手段として、道具としてあなたが必要であるといっていることになります。     
 このようにお互いが自分の幸福のために利用しあうという間柄で、たまたま利害関係が一致している状態を「愛」というのならば、それは我欲そのものですから、仏陀はそれを愛欲とよばれたのです。人はそのおかれた状況、時と場合によって快適さの条件が変わってゆくものです。状況によってお互いの利害関係がくいちがってくると、今までの愛は憎しみに変わり、見方が敵になります。このような危険な愛に生きているのが人間であるとすれば、人間関係というものは、たえず破滅の危機に直面しているといえましょう。さきにあげた『法句経』に「愛より愁いは生じ、愛より怖れは生ずる」といわれたのはそのゆえです。 
   【 「聖典セミナー 『歎異抄』」 梯實圓  】

       
 人は人を愛するといっても、その愛は自己の損得を離れては考えられない自己愛であるといわれます。純粋に相手を慈しみ思いやる愛ではありません。お互いの利害関係が一致している状態が「愛」といわれ、そのバランスが崩れる時、愛の形も崩壊し、今までの愛が憎しみに変わってゆきます。このように、非常に危険な愛に生きているのが人間であるなら、その人間関係はたえず破滅の危機にさらされているのであり、法句経に「愛より愁いは生じ、愛より怖れは生ずる」といわれたのはそのためであると言われます。               
 人間の愛に潜む絶対に捨てきれない自我(エゴ)の強さが思い知らされます    
Sorrow comes from love.
Fear rises out of love. (愛より愁いは生じ、愛より怖れは生ずる)