お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Where Is Amida Buddha?(阿弥陀様はどこにおられるの?)

 南無阿弥陀仏のほかに仏様は別におられません。私の口から出てくださる南無阿弥陀仏という言葉が仏様そのものです。阿弥陀様においては、名前と実物とが分けられないのです。仏様は名前となって私の行くところどこでもおいでになります。車を運転していようが、畑で働いておろうが、眠っておろうが同じです。…………………
 浅原才市はこう記しています。才市よ、阿弥陀さんはどこにおるかと聞かれて、「へ 、今お留守であります」。そして「なもあみだぶつ。あ、今お帰りになりました」と言っています。このように、阿弥陀様は、お前のこころ以外にわたしの住む場所はないと言っておられるのです。仏様だけが住む家なんかありません。腹を立てたり、やきもちを焼いたりする、このお粗末な凡夫の心が阿弥陀様がお住みになるところです。             
 【 「即身成仏と信心決定」『歎異抄』第十五条 大峯顯 】


 大峯師は、「阿弥陀様においては、名前と実物とが分けられないのです」と言っておられますが、これは真宗で教えられている「名体不二の南無阿弥陀仏」ということですね。如来自身が内から表れている姿が「南無阿弥陀仏」の名号であるということで、如来の体と名号とは一つということです。また、「念声是一(ねんしょうぜいち)」という言葉がありますが、このことについては心の中で称える念仏も、口に出して称える念仏も同じである、ということが御一代記聞書の中に書かれています。                      
 幸いにも心に念仏が宿り、また口からこぼれる身にさせて頂いたのです。これら「名体不二」「念声是一」という教えからも、阿弥陀様のおられる場所は、私のこの心の中以外にないということが、いよいよハッキリしてきます。昔は遠い遠い存在でしかなかった阿弥陀様が、今はこの世の誰よりも、親友よりも家族よりも近い存在であったとは、何とも驚くべきことです。     
My impressions:
We are taught that Amida Buddha's figure and the Name( Namu-amida-butsu )
can't be separated from each other. That is, Amida Buddha and the Name are
naturally one. We are also taught it is the same that we say the nembutsu from
our lips and say it in silence in our mind. To my happiness, my heart is filled with
gratitude for the Buddha, and say the nembutsu aloud or silently. The Buddha
used to be only a faraway existence to me, but Amida Buddha is now in the
nearest place _in my mind no one can reach. What an amazing bald fact !