お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

What Is Self ?(自己とは何か?)

 この自分というものはこの世に生まれた時にはじめて出現したのではありません。自分はこの世に生まれる前にやはり自分だったのです。自己というものには始めも終わりもありません。仏教とはこの不思議きわまる自己というものの正体の探求なのです。自己とはそもそも誰なのかということの究明が仏教である以上、浄土真宗も例外ではありません。道元禅師は、「仏道をならふといふは自己をならふなり」と端的に仰っています。それは曹洞禅の教えであって浄土真宗とは別だなどと思っていたらおおきな間違いです。大乗仏教はすべて自己の探求なのです。                             
 近代日本の仏教改革者の清沢満之はこう書いています。「自己とは何ぞや。これ人生の根本問題なり。自己とは他なし。絶対無限の明用に乗托して任運に法爾にこの境遇に落在せるもの即ち是れなり」と。この自己とは何か。この自分の正体は何かという問いに答えを得る以外に仏教はありません。「自分は自分です」では何の答えにもならないのです。自分というものは一体何ものかということは仏さまに教えていただかないことには決して分かりません。自己とは阿弥陀さまの本願力に乗托して、死ぬまで煩悩をおこして生きる他ない存在のことであります。しかし、煩悩をおこしていても何の心配もない。阿弥陀さまの本願にまかせた以上、その煩悩を持ったままで必ずお浄土に生まれるのです。          
 【 「宇宙の中の自己の救い『歎異抄』後序」 大峯顯  】 


 上文の終わりの部分の件は、とても力強く感じられます。「自己とは何か」という難問に対して「阿弥陀さまの本願力に乗托して、死ぬまで煩悩をおこして生きる他ない存在のことである」と的確に回答が出され、その煩悩を持ったままで必ず浄土に生まれられると断言されているからです。死ぬことに心配がないから安心して生きていけるのですね。


能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃正信偈
よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。      
When the one thought-moment of joy arises, nirvana is attained without severing blind passions.(訳:『英訳親鸞聖人著作集』より)
    
My impressions:
I feel reassured in the passages of the latter part of the sentences above. There an
accurate answer is given to the difficult question, “ What is self? ” An existence is self
[ oneself ] who, leaving himself to Amida Buddha's Vow, has no other way but living
with his blind passions raised until his dying day. But he is sure to attain birth in the
Pure Land after death in spite of his blind passions. Therefore he is not worried about
his dying at all, and so he can live an easy life.