Bathed in the Refreshing Light(さわやかな光をあびて)
善導大師は「光触(こうそく)をかぶるものは、心退かず」といい、念仏の行者は、大悲の光明に照らし護られて、浄土に向かって不退転の歩みをつづけさせていただくのだとよろこばれています。
法然聖人が、この経文のこころを、
月かげのいたらぬさとはなけれども
ながむる人のこころにぞすむ
と詠まれたことはよく知られています。
さわやかな秋の月は、その光をすべての人のうえにわけへだてなくそそいでいますが、光を背にしてわが影だけを見つめるものは光の中にありながら光にあうことはできません。ただわが身の黒い影におびえるばかりです。影は引きずりながらも闇を背にして月を仰ぐ人だけがさわやかな月の光を全身にあびて、心の底まで、澄みわたっていきます。まさにそのように、大悲の光明は、万人を平等に照らしたまうが、その教説を疑いなく聞きうけて、われもまた光明のなかにあり、とみ教えをあおいで念仏するもののみがさわやかな光のうちに人生を全うすることができるといわれるのです。
【 「聖典セミナー『歎異抄』 梯實圓 】
先日、19日は中秋の名月でした。早朝からカラッと晴れわたった秋の空には、夜になっても雲一つなく、冴えた美しい満月がこうこうと輝き、辺り一面を照らしていました。草むらで奏でる虫たちのオーケストラの合奏が、一段と澄んだ音色に響いてくるようでした。月の光と虫しぐれ、二つのコラボによる、はんなりとした時の流れに、なんとなく「月かげのいたらぬさとは….. 」の歌を思い出し、梯師の上の文を読み返してみたくなりました。
改めて読んだ後に感じたことは、心がスーッと洗われるようなすがすがしさです。
月かげのいたらぬさとはなけれども
ながむる人のこころにぞすむ
(月の光はどこも隈なく照らしますが、それを眺めない人には見えません。月の光はそれを眺める人の心にこそ照りわたります)《この部分は浅井成海師の注解によります》
梯師が言われるように、仏様の教法を疑いなく聞きうける人の心の中にこそ大悲の光明が澄みわたるのですね。
「月かげのいたらぬ 〜 こころにぞすむ」
Although the moonlight has no place not to reach through, it dwells only in the mind of a person who looks up at the moon.