To Hear the Name(名号を聞く)②
ゆえに第十八願成就の文(もん)には「アラユル衆生、ソノ名号ヲ聞イテ信心歓喜ス」とも示されてあります。名号のいわれの聞こえた時、疑心の闇は晴れて、信心の月はあらわれるのであります。(途中省略)
その故に本鈔には ※「仏は正覚成りたまえるかいまだ成りたまはざるかを分別すべし、凡夫の往生を得べきか得べからざるかを疑うべからず」と、仕上げの法をよく聞いて、機のよしあしに心を留め往生の得不を定むべきものでないと指示せられているのであります。
阿弥陀仏によって仕上げられた法の自然の道理によって、われら迷える衆生は、たすけられて行くのであります。従って心に開ける信心は、法がわれらの上に顕現したものにほかならないのです。それは、如来の決定信がわれらの決定信となるのです。これを「他力よりたまわる」とも示されてあります。
そこのおもむきを本鈔には ※「弥陀のかわりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添うることはなきなり」と示されているのであります。(途中省略)
法体のひとりばたらきという他力信心のおもむきを、こころ行くまで明らかにせられた聖教は、本鈔にしくものはありません。蓮師が本鈔を愛読せられた所以もここに原因があるのでありましょう。
【 「『安心決定鈔』法話」 瓜生津隆雄 本願寺出版 】
★文中 ※の「 」の文は、カタカナで書かれています。
ここでも瓜生津師は、助かるには仕上げの法を聞け、すなわち名号のいわれ(仏願の生起本末)を聞けと言われ、機のよしあしに心を留めてはならないと重ねて言っておられます。
こういう文を拝読しますと、どうしても思い出されるのは、以前某会で聞いていた教えです。そこでの教えは、真実の自己(地獄一定の自己と教えられていました)を知らされることが、助かる要であるということでした。ですから、心はいつも自己に向かざるを得なかったわけです。一向専念無量寿仏と表面上は勇ましいのですが、中身は空っぽで、阿弥陀如来一仏に向くことは不可能でした。
両方に一向専念は不可能です。___ ここで言われていることとは正反対だったのです。つまり一向専念自己であった、と言ってもよいと思います。
あらゆる衆生、その名号を聞いて信心歓喜す
All sentient beings, as they hear the Name, realize one thought-moment of shinjin and
joy.