お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

A Person to Always Say the Nembutsu(常念仏の人)

※「この信心起こりぬるうえは、口業には、たといときどき念仏すとも常念仏の衆生にてあるべきなり。三縁のなかに、『口につねに、身につねに』(定善義)と釈する、このこころなり。仏の三業の功徳を信ずるゆえに、衆生の三業、如来の仏智と一体にして、仏の長時修の功徳、衆生の身口意にあらわるるところなり」                    
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  「コノ信心オコル」すなわち仏心と凡心が一体となる信心を発得した上からは、あるいは名利の縁にほだされて仏を念ずることなく、あるいは煩悩の睡眠にさえられて仏を忘れることがあっても、仏は智慧の心をもって、または慈悲の眼をもって、常に行者を捨てることなく、常に行者をみそなわれているのです。(途中省略)                
他力廻向の法に染みつくと法体は不断でありますから、ときどき念仏しても常念仏の行者であります。                          
  【 「『安心決定鈔』法話」 瓜生津隆雄 本願寺出版 】


 ※の「   」(「安心決定鈔」の文)の部分は瓜生津師の著書ではカタカナで書いてあります。                                     
浄土真宗聖典」より  三縁:阿弥陀仏が念仏の衆生を摂取する三種の深いかかわりのこと      
長時修:恭敬修・無念修・無間修を命終るまで修め続けること


 煩悩の雲に覆われて念仏を忘れていることの方が多いのが私の実態ですが、信心を発得したなら、常念仏の衆生だと言われます。仏心と凡心が一体になっているために、仏の不断の功徳が衆生の身口意にあらわれるからだと教えられます。このことから、念仏は間断なく(常に)継続していること、しかも私の力ではなく、仏の力によって称えている(称えさせられている)ことも容易に理解できます。


この信心起こりぬるうえは、口業には、たといときどき念仏すとも常念仏の衆生にてあるべきなり                               
Once one realizes the shinjin, he is a person who always says the nembutsu even if
he intermittently says the Name.