お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Why Amida Buddha Was Far-off(阿弥陀様が遠かった訳)

 前回のネット法要をきっかけに、かねがね疑問に思っていたことが明らかになったように思います。前回も少し触れましたが(40年以上も某会に在籍しながら)なぜ阿弥陀様を身近に感じることができなかったか、ということです。経典には、西方十万億の仏土を過ぎたところに浄土があり、そこに阿弥陀仏がまします、と説かれています。当時、私には物理的にも心理的にも、非常に遠いところにおられるのが阿弥陀様、というイメージで、とてつもなく遠い存在にしか感じられませんでした。

  
 その原因は何だったのだろうか、と思い巡らした時、仏教の目的が間違っていたのではないか、と考えついたのでした。「仏教の目的は成仏」ですが、それが「仏教の目的は信心決定」である、にすり変わっていたところに原因があったのだと気づいたのです。

  
 某会の説法でいつも板書された縦の線と横の線。その横の線を進んでいって縦の線にたどり着いた時が信心決定した時、いわゆる目的が達成された時で、卒業のような感覚でした。そしてその道程は自己を見つめていくこと。そのための聴聞だったのですから、最重要課題は真実の自己を知ることであり、心は常に自分に向けられ、阿弥陀様に向く筈もなかったわけです。その結果阿弥陀様のことを考えることもできず、また考えさせようとする説法も聞いたことがなかったのでした。

 
 稲を育てると必ず米と副産物のワラができるように、信心決定という米がとれたら必ず浄土に生まれて仏になるのだから、何より大事なのは信心決定だと、まるで信心決定を米と捉え、成仏を副産物のワラのように捉えていたのでした。主客転倒だったのです。これでは阿弥陀様を身近に感じられる訳はありません。つまり仏教の目的が間違っていたことが、その最大の原因だったことが分かりました。

 それにしても、目的を間違えるととんでもない結果になるものですね。


Why was Amida Buddha far from me?:
The aim of hearing the Buddhist teaching is ‘attainment of Buddhahood’. But the aim
was wrong, which was changed to ‘attainment of shinjin’ in the S Society I
belonged to. After considering why Amida Buddha was so far from me when I was in
that society, I found the reason, which was that I was wrongly taught the very aim of
hearing the Buddhist teaching.
There is a proverb saying ‘That’s putting the cart before the horse’. To me, ‘the cart
was ‘attainment of shinjin’ and the horse was ‘attainment of Buddhahood’.