お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

My Irreplaceable Self(かけがえのない私)

 「僕は誰からも必要とされていない。私なんかいなくてもいいんじゃないか…. 」   
 学校や職場で、こうした思いを持つ方は、決して少なくないのではないでしょうか。最近では厳しい就職活動の中で自分の存在そのものが否定されたように感じ、自らいのちを断つ学生がいることも報道されています。「あなたの代わりはいくらでもいる」などのように、取り替え可能な人間と言われることほど、「生きる意味」を失う体験はありません。まさに私たちは、「誰かにとって大切な存在であること」によってはじめて、「自分の大切さ」が実感できるのです。  (中略)                       
 自分の顔は、鏡に映して見ることができるように、私自身の姿についても、自分で気付くより、他者の存在を通して知らされるということがしばしばあります。同様に、他者にとってもまた、他ならない私の存在が大きな意味を持っています。このように、あらゆる存在が互いに関わり合いながら形づくられている究極的な縁起の世界こそが、私たちが生きているこの世界なのです。今、生きているこの私こそが、実は「すべての存在にとってなくてはならない、大切な私」であることを仏教は伝えています。               
(It is my own self living here now that is very important and indispensable to the
existence of all people, which Buddhism teaches.)
  【 浄土真宗本願寺派総合研究所 冊子『ごえん』より 】

 


 もし「私なんかいなくてもいいんじゃないか… 」と心が潰されるような絶望感に襲われたときは、自分が知らないだけで「私は誰かとつながっている」ということを思い出したいものです。ここに書かれていますように、「私はすべての存在にとってなくてはならない大切な私である」のです。                              
 とりわけ両親にとって「私」という存在は格別です。生まれてからずっと陰になり日向になり大切に育ててくれた人です。そんな両親にとって私が自らの命を絶つとしたらどうでしょう。どんなに悲しませるかしれません。子供は両親にとって、まるで分身のようにかけがえのない存在だからです。                            
 でもそれ以上に私の命を大切に思って下さる方は阿弥陀さまです。どれほど恩のある両親といえども悲しいかな、今生だけの縁ですが、阿弥陀さまは悠久の過去から未来永劫に亘って私とのご縁のある方です。                           
 私の命について考えるとき、阿弥陀さまの命の一部を生かされていることを思うと、大切にしなければ、という気持ちがわいてきます。