お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

For My Sake Alone(私一人のために)

 下記は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(When I consider deeply the Vow of Amida, which arose from five kalpas of profound thought, I realize that it was entirely for the sake of myself alone.) の言葉についての説明です。                                 

 「親鸞聖人も十方衆生を救うという本願が、この親鸞一人のためであったということをお感じになるまではやっぱり「よくよく案ずる」という深い内省が要ったのです。これは先に申しましたように、信心を外から知的に反省することではなく、信心が信心自身を内省すること、宗教的意識の自己反省です。これによって信心そのものが深まっているのです。お説教をぼんやり聞いていたら弥陀の本願はどうしても他人事になってしまうのです。阿弥陀さまはどんな悪人でも救って下さる慈悲深い方なんだと思って聞くかぎり、もう本願を他人事として聞いているのであります。親鸞聖人はそうではありません。十方の衆生を救うということは、この親鸞一人を救うということなのだ。この親鸞一人が助かったら、最後のものが助かったことになるのだから、全部助かる。この私こそ阿弥陀さまの成仏を長いあいだ待たせていた張本人だったというふうに味わわれたのです。」   
  【 『宇宙の中の自己の救い「歎異抄」後序』 大峯顯 百華苑 】   
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 親鸞聖人は、弥陀の本願を「親鸞一人のための本願であった」と味わわれました。大峯師は、これは聖人の「よくよく案ずれば」という深い「宗教的意識の自己反省」から出た言葉だと言われます。本願は生きとし生けるものすべてを、つまり「十方衆生」を救う本願だと聞いたら、私自身もその中に含まれるけれど、それでは本願が「他人事になってしまう」と仰います。なるほどと納得させられます。                      

 「(聖人の)信心そのものが深まっているのです」の説明に、私自身も本願が「私一人のためであった」と味わえるようになりたいもの、と思います。