お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

You Need Only Shinjin(信心一つ)

 信心には、助けられると信じて念仏申すという事の外に、なんらの思想内容も与えてはならない。( You must not add any thought to shinnjin except for
having been enlightened and then saying the Name.)
 現代の思想迷路、思想地獄を充分に知っているものには、この無思想の信心の境地がどんなに尊いか知れないのである。無くてならぬものはただ一つ、それは決して思想ではない。科学でも、哲学でも、芸術でもない。このなくてならぬただ一つものを摑むのには、哲学も、科学も、芸術も、一切の思想も要らない。まったくの手ふりでいい。一文不知の尼入道でいい。それを摑んでしまってから、その人の器量次第、業報次第で、科学、哲学、芸術の世界に分け入ることが出来るなら、これに越しためでたい事はない。しかしそれは誰にでも出来ることではない。器量次第、業報次第ではそれらはほとんど享受し得られないこともある。しかしそれらが得られないからと言って往生には障りはない。安心立命には影響はない。宇宙とひとつとなり、許されて生き、その人の命は法界におさめ摂られる。死んでももういい。
   【 「法然親鸞の信仰(下)) 倉田百三 】

  
 筆者の生きた明治24年から昭和18年の時代にも、いろいろの思想があったことが窺われます。この様な時代的背景からと思われる「なんらの思想」とは、その時代の人々の思想に相違ありません。つまりそれを信心に付け加えるということは、人間の思想を付け加えることになります。あくまで信心は如来より賜るものですから、他力の信心に加えるものなど何物もあっていい筈がありません。                     
「このなくてはならぬただ一つのものを摑んでしまったら」つまり、「信心を獲たら」、「死んでももういい」と書かれていることに、ほっとした安らかな気持ちになります。