お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Words of Light(光の言葉)

 浄土の言葉のことを、『大無量寿経』の「華光出仏」には“光の言葉”と書いてありますが、その光の言葉をもって私たちの心の闇を照らし、さとりの世界へと私たちを導き、育てていてくださる。その仏さまに、今遇わなければ遇う時はありません。死んでから遇う仏さまではないのです。生きている間に遇う仏さまなのです。『大無量寿経』というお経は、それを私たちに知らそうとしているのです。                      
 お経というのは、仏さまの智慧の光が言葉となって私たちを導いている相(すがた)なのです。仏さまに遇いたければ、お経を読むことです。お経を聞くことです。お経を聞いて目覚めてゆけば、仏さまと同じ目覚めの境地がわかってくる。そういう世界を味わうのが仏教なのです。    (中略)                            
 例えば『金剛般若経』というお経があります。これを見ますと、“このお経の聞こえるところ、そこに如来はいる”とあります。如来がお経の言葉となって私たちを導いている。たとえお釈迦さまが生きておられたとしても、教えを聞かなければ何の意味も持たないでしょう。逆に、教えを聞き、教えに触れ、その神髄を味わうことができれば、お釈迦さまに遇っているのと同じです。生きておられる間に遇えればそれは結構なことだけれども、お経に書いている通りのことをお釈迦さまはおっしゃったわけですから、その後はお経の言葉となって生き続けていてくださるのです。ですから、仏さまに出遇うということは、教えを聞くということです。“教えの中に仏は生きておられる”と『金剛般若経』には書いてあります。(以上は梯實圓師の説法です)
    【 『闇を照らす光の言葉』  梯實圓 淺田恵真  】     

      

 私たちは今、お釈迦さまに遇うことはできませんが、お釈迦さまの教えはお経の中に書き残されています。ですから、お経を読むことによってお釈迦さまに遇うことができると梯師は仰っています。つまり、お釈迦さまは言葉となって私たちを導いて下さっているわけです。浄土の言葉は、“光の言葉”という表現で『大無量寿経』に記されているとも仰っています。「私たちの心の闇を照らし、さとりの世界へと私たちを導き、育てていて下さる」(‘The words of light are shining the darkness of our minds
and are leading, nurturing us to the world of enlightenment.’ ) のですから、私たちにとっては仏語そのものが‘光’なのですね。