The Buddhas’ Logic(仏の論理)(2)
順彼仏願故(かの仏の願に順ずるがゆえに)(善導大師)
(『註釈版聖典(七祖篇)』四六三頁)
(略)
隋・唐の時代は、中国では仏教の全盛期でしたが、念仏の教えについて、必ずしも正しく理解されていなかったのです。
天台大師智邈(ちぎ)などは、念仏往生は認めながら、念仏で往生できる浄土は報土ではない(低級な浄土)と見ますし、摂論家(しょうろんげ)の人たちは、浄土が報土であることは認めても、だからこそ、念仏くらいでは往生は出来ないと見るのです。表面的には二様(によう)ですが、論理としては次の論理で共通しています。すなわち、「安かろう悪かろう」の論理です。「念仏くらいで往生できる浄土は程度が低い」「この上ない浄土に往生するには念仏では足りない」。まさに、「安かろう悪かろう」です。
私たち人間界では、確かにこの理屈は合っているでしょう。バーゲンで買ったような靴下は、すぐ破れそうですし、お寿司が回転している寿司屋よりも、高価な寿司屋の方がおいしいような気がしたします。
しかし、仏の世界のことを人間の論理で測っても全く意味がありません。このことを指摘したのが善導大師です。仏の世界のことは仏の論理で判断すべきで、それが、「かの仏の願に順ずるがゆえなり」。阿弥陀仏の本願に誓ってあるから念仏が正定業(しょうじょうごう)、念仏ひとつで浄土に往生できるのです。
世界が違えば論理も違って当然です。
【 『珠玉のことばたち』 満井秀城 】
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「安かろう悪かろう」の論理で浄土を見る、まさに人間らしい論理です。しかし、「仏の世界のことは仏の論理で判断すべきで、それが、『かの仏の願に順ずるがゆえなり』」です。仏説に人間の解釈を交えることなく、そのまま準じてゆくことが大切です。
疑い深い人間の論理は毛頭間に合いません。
( The logic of suspicious human beings is of no use. )