お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

『明日をひらく「一期一話」』(3)

            生きる(3)
 「人身受け難し今すでに受く。仏法聞き難し今すでに聞く」この法句は仏の教えをいただく者の喜びであります。                    
 私共がこの世に生まれるまでには35億年もの間いろいろな世界を虫になったり鳥になったりして闇の中をさまよってきたのです。             
 釈尊は無明と言われました。ともかく生まれたい生きたいという働きに動かされて生きてきたのです。釈尊は人間に生まれた事を「天上天下唯我独尊」と教えられ命の尊いことを宣べられたのです。35億年もの永い歴史を持った私の命の中には生きとし生けるあらゆる命が流れ何ものにもかえることの出来ない宝物であると教えて下されたのです。人身は受け難く仏法は聞きがたかりし永い無明を迷い続けた私の命に野仏のお働きを頂き人間として今日を生かされてあると思うのであります。(P.66)(野々市市 浄福寺前住職 故・香城哲丸)  

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 仏教では、人間に生まれることは極めて難しいことだと教えられています。この生まれ難い人間界に生を受けて、どちらかと言えば、苦しい事の方が多い世の中ですが、仮に、一日一日を満足して生き、死に際に「あゝ、いい人生だった」と、満足して終えられる人生であったとしても、もし仏法に遇わずして死んでいく人生だったらどうでしょう。      
 冒頭の法句「人身受け難し今すでに受く。仏法聞き難し今すでに聞く」の後には、   

「この身今生において度せずんば、更にいずれの生に向かってかこの身を度せん」
(If you are not saved by Amida Buddha in the present life, which world on earth
are you enlightened in? )


の文が続きます。今生において仏法を聞き、阿弥陀仏の救いに遇わなかったら、いつ救われるというのでしょう。再び、永くて暗い闇の中を経巡らなければなりません。35億年もの永い歴史を持っているといわれる私の命の流れの中で、今、この人間界に生まれて、聞き難い仏法を聞いて、「今すでに聞く」の身になってこそ、人間に生まれた意義があります。人生は、仏法を聞くための人生である、と言っても過言ではありません。         


※ 度する(広辞苑
[仏] 生死の此岸から涅槃(ねはん)の彼岸に渡す。済度する。菩提心を起こさせる。