思い通りに助けられなということを知る ( We Know That We Cannot Save Others as We Wish )
今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし(歎異抄)
これは聖道門(自力)と浄土門(他力)の慈悲について親鸞が述べた言葉の一節です。聖道門の慈悲はすべてを憐れみ、慈しむことですが、思うがまますべてを救うことは困難です。一方、浄土門の慈悲は念仏して往生し、仏となってすべてをすくうこと。ですから、この世にいる間は、どれほど不憫に思っても、心のままに助けることはできません。私たちにできるのは念仏するだけなのです。
「誰かを救いたい」という気持ちは尊いものですが、それがかなわないとき、私たちは自分自身の無力を思い知らされます。それでも、ときに非力であるということを知りながらもなお、他人のために動ける人でありたいものです。
【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
浄土門では今生で、阿弥陀仏の本願を疑いなく聞いて救われますが、この世では仏になることはできません。死後、浄土で仏に生まれることが示されています。
ですので、今生では仏さまのように人々を救うことができない旨、教えられています。ここに書かれていますように、非力でも、他人のために動ける(個人的には、仏教の事で何かと手助けできる)人でありたいと思います。
今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知の如くたすけがたければ、この慈悲始終なし( However much love and pity we may feel in our present lives, it is hard to save others as we wish; hence, such compassion remains unfulfilled. )
存知のごとく;思い通りに。
始終なし;終始一貫しないこと。徹底しないこと。