お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Unexpectedly( ふいっと )

 ここで確認したいことは、教育が人知における同質的な変化、つまり人知の延長で何かがわかること(知識の吸収や創出)であるのに対し、仏の教化に浴することは、人智とまったく異質な仏智にふれることですから、実際の体験としてかならず人知からの飛躍がともなうということです。                                
 深く聞法して、自らの人生を真剣に生き抜かれた人を、真宗仏教は「妙好人」と呼んで讃えていますが、その一人に“因幡の源左さん”という人のことが伝えられております。その源左さんの言葉に、                                
   ふいっと わからして もらったいな                     
というのがあります。悶々(もんもん)とした求法の歩みの中で、ある日、あるとき、思いもよらず、「あっ、そうか」と心眼がひらけた一念を言い表した言葉でしょう。      
 「ふいっと」というところに飛躍があります。私たちは、仏法なんて徐々にわかることだろうと思っているわけですが、実は「ふいっと」という飛躍が最も肝要です。「さとり」とか「獲信(ぎゃくしん)」は、決して私たちの理知の延長上で何かがわかるというということではないのです。それなら、わかった自分とわかったこととは同質ですから、救いになるはずがありません。「自覚」や「覚醒」は異質なものとの出遇いですから、かならず飛躍があるのです。意外性とも言えるゆえんでしょう。                   
     【 『浄土真宗入門 親鸞の教え』 池田勇諦 東本願寺出版 】          
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 浄土真宗の要とされる「信心決定」や、「獲信」ということについて、とても分かりやすく書かれています。                                
 注意すべきことは、「私たちは仏法なんて徐々にわかることだろうと思っているわけですが」「“さとり”とか“獲信”は、決して私たちの理知の延長上(人知の延長)で何かがわかることではないのです」。きちんと押さえておきたい所です。              
 源左さんの言った「ふいっと わからせて もらったいな」は、「“あっ、そうか”と心眼がひらけた一念を言い表した言葉」であり、「“ふいっと”というところに(人知とまったく異質な仏智にふれた)飛躍がある」と池田師は言われます。              
 まさに、「ふいっと」は一念を言い表すみごとな表現になっています。         


I was unexpectedly enlightened.
    (ふいっと わからして もらったいな)