お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

To Hear is Shinjin(聞くことは信心なり)

 母に抱(いだ)かれて笑う幼子(おさなご)は、母の慈(いつく)しみを信じて疑うことがない。慈愛に満ちた声を聞き、ただその胸に身をまかせ、大いなる安心のなかにある。 
 親鸞聖人は仰せになる。                             
 聞其名号というは 本願の名号を聞くとのたまえるなり きくというは 本願をききて疑うこころなきを聞(もん)というなり またきくというは 信心をあらわす御(み)のりなり                                       
 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との慈愛に満ちた如来のよび声。このよび声をそのまま聞いて疑うことがない、それを信心という。              
 自分の見方をより処(どころ)とし、自分勝手な思いで聞くのであれば、如来の慈愛のよび声をそのままに聞くことにはならない。                      
 母の慈愛の思いが、幼子の安心となるように、如来のよび声が、そのまま私たちの信心となる。                                      
   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】        
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 「聞くとは本願を聞いて疑う心のないこと」であり、「聞くとは信心をあらわす御法(みのり)である」と親鸞聖人は仰っています。これは『一念多念文意』でのお言葉ですが、本願を聞いて信心の身になるための、「本願をそのまま聞く」、「本願に対して疑う心のない」、というような心の姿勢といったものが説かれています。                
 一方、「聞く」ということに関して、「正信偈」には「信楽(しんぎょう=他力の信心)受持すること、はなはだもって難(かた)し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」と書かれています。                                    
 自己の「疑心を交えず、そのまま聞く」ことが如何に難しいかということであり、上記文からは、これを打破するためには、自分が母の慈愛に抱かれた幼子のような気持ちで、如来のよび声にそのまま殉ずることの大切さを感じます。                 


Hear the Name is to hear the Name that embodies the Primal Vow. “Hear” means
to hear the Primal Vow and it is free of doubt. Further, it indicates shinjin.
 (聞其名号というは ……………………. 信心をあらわす御のりなり)