お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

真宗の「喜び」と「聞くということ」(The Pleasure and Hearing of Shin Buddhism) 

 浄土真宗で、教えを受ける、お念仏の生活をするということについて、いろいろな面から味わうことができますが、私は、一口にいって、喜びであると思います。        

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 浄土真宗の喜びは、…………. 真実の教えに遇った喜び、真実を聞かせていただいた喜びにほかならないと思います。ほかの人が悲しむといったマイナスが裏側についた喜びではなくて、私が喜ばせていただくことを通じて、多くの方が一緒に喜んでいただくことのできる喜びであると思うのです。それは、まさに、み仏の真実に出遇った喜びであります。 

 では、その真実に遇うとは、どういうことでしょうか。それは、み仏の教えを聞かせていただくところに成立するのであり、それをおいてほかにはありません。私たちの宗門で、門法(もんぽう)、聴聞(ちょうもん)という言葉を使っていますが、すべて、真実の教えを聞かせていただくということでありましょう。                   

  (略)                                    

 浄土真宗の聞くということも、一番はじめは、もちろん、耳に入れる、あるいは目を通して頭に入れるということですが、究極的には、み仏の教えに従うというところまでいく、そういう聞き方にまで進むべきものだと考えます。そこに、浄土真宗でいう聞即信(もんそくしん)、聞くことそのことが信ずることである、という味わいを持たせていただくことができると思うのです。                                

   【 『すくいとよろこび』  大谷 光真   本願寺出版社  】       

 

 まとめますと、浄土真宗の喜びとは、阿弥陀仏の説かれる真実に出遇った喜びをいいます。そして、その真実に遇うとは、真実の教えを聞くということです。           

 「聞即信」とありますが、『浄土真宗聖典』補註にはこのように書かれています。「『聞といふは衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり』といい、名号のいわれを正しく聞き開いたことが信心であるといわれている。これを『聞即信』という」。

つまり(疑いなく)聞くことそのことが信ずることであるのです。           

 私たちが日常生活で経験する世間の喜びというものは、ずっと続くものではありません。どんなに楽しいことであっても、「歓楽極まりて哀情多し」と言われますが、楽しみが極限に達してくると、かえって悲しい気持ちが増してくるのです。でも、「仏法を疑いなく聞いて得た喜びは末永く続く喜びであります。( The pleasure we have got as a result of hearing the Buddhist teaching without doubt is that which lasts forever. )」。これほど喜ばしいことがあるでしょうか。