お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

無常が教える「今」の大切さ ( The Importance of “Now” Transiency Teaches) 

  朝(あした)には紅顔あって                          

  夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり / 蓮如                  

 親にとって一番の悲しみは、わが子に先立たれることではないでしょうか。いつかは酒を酌み交わしたい。花嫁姿に泣かされてみたい。心のなかのあたたかい気持ちが突然断ち切られてしまうとき、私たちは無常を感じずにはいられません。              

 しかし考えてみると、無常というのは特別な瞬間にだけあるのではないのですね。いまこの瞬間にも、すべては移り変わっている。私たちはいつも無常のなかにいるのです。   

 いま喧嘩をしている人と仲直りができないまま、永遠の別れを迎えることもあります。生きることのはかなさをわかっていないから、私たちは小さなことでイライラし、怒りを引きずってしまうのです。                               

 蓮如が言うように、私たちは朝に元気であっても、夕方には白骨となる身です。いつ終わるともしれぬ命の時間を、怒りでいっぱいにしないためにも、いまというこの時間を大切にしたいものです。                                 

    【 『老いを生きる仏教の言葉100』  ひろ さちや [監修]  】      

 

 この蓮如上人の言葉は、御文章五条第十六通の「白骨の章」とも呼ばれる文章の中に出てくるもので、真宗ではとてもよく知られています。普段、私たちは無常ということを忘れて生活していますが、この文章に出会うと、とたんに無常を痛感します。上記にもありますように、私たちはいつも無常の中にいるのです。ですから、無常の風が吹くとひとたまりもありません。朝には血色のいい顔をしていた人も、夕方には白骨の身になってしまいます。 

 この現実をいやおうなしに受け止めざるを得ません。「世の中は、今よりほかはなかりけり、昨日は過ぎつ明日はしられず。( We have nothing but “now” in the world.

Yesterday passed and tomorrow cannot be known. )」とも言われます。「今というこの時間を大切にしたいものです」。