お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

恐ろしい我が心 ( Fearful My Own Mind ) 

 悪性(あくしょう)さらにやめ難し こころは蛇喝(じゃかつ)のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮(こけ)の行とぞ名づけたる (悪いことは一向に止められず、心は蛇やサソリのようです。修行や善行も何の役にも立ちません。それらはいつわりの行にすぎません) 正像末和讃」の中の「愚禿悲歎述懐」                   

 どれほど仏教の基本的立場である“自業自得”の教えを説かれてみても、なかなか自分の心を浄(きよ)めることができないのがわたくしたち平凡な人間です。しかも、そんな汚れた心を持ちながらも、何とかして未来によい結果を得たいものと願って、形だけでも修行をし、善行を積み上げようともがいているのではないでしょうか。            

 ところが、わたくしたちがやれるような修行や善行は、しょせん汚れた心のままにやっているのですから、とうてい悟りの世界に到達できるような立派な行為ではないのに、そのことにさえ気がつかないのです。したがって、何の役にも立たないことばかりしながら、いつかは仏に成れるのではなかろうか、と考えているのです。               

 じっくりと自分の心をみつめてみますと、それが何と汚いものであるか、ということに気がつくはずですし、どんなに無理をして善行をなそうとしても、それは、結局のところ、醜い姿のままに一生懸命化粧して美しくなった、と錯覚しているようなものなのです。   

       【 『親鸞の人生訓』 花山 勝友  PHP  】           

 

 「親鸞聖人が冷静に自己を内省された言葉は辛辣です。( The words Saint Shinran

reflected calmly on himself are bitter. )」。                       

 聖人でさえ、そうなのですか、とほっとして許される気持ちが出てきます。でも、私自身の心は私が一番よく知っています。自分に噓はつけません。我が心は恥ずべきものであり、許されるものではありません。「醜い姿のままに一生懸命化粧して美しくなった、と錯覚しているようなもの」、大いなる反省が必要です。