お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

理屈では説明できないものがある ( There Is Something beyond Explanation by Theory)

      念仏には無義をもって義とす (歎異抄

 義とは「はからい」や「分別」を表す言葉。本願他力の念仏においては、自分の都合で判断したり、理屈で考えたりすることはしません。「念仏を称えれば、よいことがあるかもしれない」などという勝手な意味づけは、してはいけないのです。

 現代に生きる私たちは論理的な思考に慣れています。物事に対して、「どうしてこうなるのか」「これを行うと、どんな結果になるのか」と思いを巡らせることも多いでしょう。しかし、私たちの身の回りで起きることや、人との出会いなど、世の中にはどうしても理屈では説明できないこと、言葉にできないことがたくさんあります。それらに自分なりの意味づけをする必要はありません。がんじがらめの理屈から解放されることで、見えてくるものがきっとあるはずです。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗  リベラル社 】

 

 「歎異抄」には「念仏には無義をもって義とす」と書かれています。この言葉を、「浄土真宗聖典 註釈版(第二版)」には、[ 義なきを義とす] と表現して、「本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とする」、という意味である旨、書かれています。

上記の説明通り、念仏には自分の理屈で考えたり、勝手な意味づけをしてはならないのです。

自力を捨て、他力にお任せしましょう。

念仏には無義を持って義とす ( Concerning the nembutsu, no working is true working. )