お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

書き記す ( Write Down ) 

 新しい時代の人は、昔のことを学ばなければならない。また、古い時代の人は、昔のことをよく伝えなければならない。口で語ることはその場限りで消えてしまうが、書き記(しる)したものはなくならないのである。『蓮如上人御一代記聞書』(四五)          

 「書き記したものは無くなりません( Notes you have written down do not disappear.)」。書き記すことの利点です。                             

 ところで、「書き記す」は「書き残す(書いて残す;“書き残す”には書き漏らす、書き落とす、という意味もありますので念のため)」とも言い換えられます。以前、法友の方からハガキを頂いた時、「(仏教に於いては)日々感じる事も、文字に残ると有り難く感じます」と書かれていました。書き記すこと、つまり書き残すことのもう一つの利点です。    

 このことは、私も常々感じていたことなので、うれしくなりました。ブログを楽しみながら、文字に残すつもりで書こうと思います。                     

 

 

名体不二 ( The Name and the Body Are Nonduality ) 

 「名体不二とは、阿弥陀仏の名号とその仏体とは一つであるということです。( The

Name of Amida Buddha and the body are nonduality. )。色も形もましまさぬのが阿弥陀仏であると言われます。でも阿弥陀如来のお姿は、絵像や木像となって示されています。ですので、私たちは、仏さまはそのようなお姿だと思っていますが、実際は私たちの目には見えないだけなのです。                                

 名体不二ですから、名号は「南無阿弥陀仏」という私たちが称える念仏となって口から出てくだされています。つまり、その時、阿弥陀仏が(目には見えませんが)出現されていることが実感できるわけです。また私たちは、心の中でも「南無阿弥陀仏」と称えますから、『私たち凡夫の心の中に阿弥陀様は住まわれているのです』と、大峯顯師は言っておられます。正に、私たちは阿弥陀様に包まれていると言われる所以です。           

 

 ※上記に関連した記事です。                            

 https://miko415.hatenablog.com/archive/2013/08/04 (阿弥陀様はどこに・・)    

 

 

 

『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons )(7)

 みんな「死は永遠の別れ」だと思っています。この世とあの世、絶対会えない二つの世界に、別れ別れに棲むことだと思っています。だけど果たしてそうかしら?        

 死なれてみて、逆にはっきりとその生涯が見えてきます。もう争いも憎しみも消えて、人生の先達として学ぶことばかりです。思い出す眼差しも優しい。            

 死は別れではない。新しい出会いであります。(魚津市 真宗大谷派榮明寺前防守 故・佐賀枝弘子)                                   

 

 「死は別れではない。新しい出会いであります。(Dying is not farewell but a new meeting.)」このような文を拝読しますと、本当にその通りです、とほのぼのとした気持ちになります。ただ、その前に、一つだけこの世で成し遂げておかなければならない大切なことがあることを忘れてはなりません。言うまでもありませんが、「阿弥陀仏の本願を聞いて救われる」ということです。この世で救われてこそ、俱会一処と言われますように、死んでも浄土で再会できるのですから。                                

 

 

包まれている ( Being Wrapped ) 

 『蓮如上人御一代記聞書』[ 100 ] には、「弥陀を信じておまかせする人は、南無阿弥陀仏にその身を包まれているのである。(Those who believe in Amida Buddha and leave them to the Buddha are being wrapped by Namu-amida- butsu. )」と、書かれています。我が身を包まれているのですから、心から安らかな気持ちになります。常に見守られていると言ってもいいでしょう。有り難いことです。                    

 

 

もう十分ということはない ( It Isn’t Still Enough ) 

 法敬坊(ほうきょうぼう)は九十の年までご存命でありました。その法敬坊が、「この年になるまで仏法を聴聞させていただいたが、もう十分聞いた、これまでだと思ったことはない。仏法を聴聞するのに飽きた、足りたということはないのである」といわれました。『蓮如上人御一代記聞書』(四八)                            

 「仏教は、たとえ何十年聞いても、もうこれで十分聞いたということはないのである。(Even if you hear Buddhism for dozens of years, it isn’t still enough,)」と法敬坊は言われました。この思いは、おそらく聴聞する人、誰にも共通するのではないかと思われます。私自身も何回おなじことを聞いても、新鮮に聞こえるので不思議だなぁと思うからです。                                     

 

 

『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons )(6)

 「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき・・」と詩(うた)い、信心の人は「むなしく生死にとどまることなし」と、親鸞は述べます。                

 人と生まれて、虚しく一生を終わりたくない― 、これこそ人としての一大事であります。「成功も失敗も夢のごとく過ぎてゆく間に、夢でないものに出遇わなくてはならない」(安田理深師)。                                    

 虚しさの漂う今日の時代、こころして味わう言葉ではないでしょうか。(黒部市 真宗大谷派明源寺住職 辻俊明)                             

 

 「成功も失敗も夢のごとく過ぎてゆきます」。どのように過ごそうとも、その過ごし方にかかわらず一生は夢のごとく過ぎ去ります。古歌に、「夢の世に 夢見て暮らす 夢人が 夢ものがたり するも夢かな」と詠われていますように、正に人生は夢、幻のようにはかないものです。                                   

 親鸞聖人は「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき。( No one lives in vain if

he meets the power of the Primal Vow. )と詩われました。夢でないもの、すなわち阿弥陀如来の本願力に出遇えば信心の人となり、夢の世から抜け出すことができるのです。本願力との出遇いが最も大事であると知らされます。                    

 

 

『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons )(5)

 かけがえのない命と人生の尊さを、亡くなった人は語りかけてくださいます。そして残された私たちは、こころの底深く願います。この世での勤めを終えた暁には、かの安楽の浄土で倶(とも)にお会いすることを。                        

 「倶会一処(くえいっしょ)」。こけむした古いお墓には、このことばが多く刻まれています。愛別離苦の身にも、悲しみを越えて行くことのできる尊い教えを授かって、生かされている私たちなのです。(富山市 真宗大谷派報光寺住職 入部法純)          

 

 「南無阿弥陀仏」の六字の名号を如来より頂いた人は皆、死後、浄土で再会できると教えられています。これを、「倶会一処 (阿弥陀仏の浄土に往生して、浄土の人々と倶に一処に会同すること)<You attain birth in the Pure Land after death, and get together with those who are there. >」と言います。                       

 もう既に亡くなってしまった懐かしい人たちと、再び会えるとは、何と喜ばしいことでしょう。偏に阿弥陀如来のお力のお陰です。                      

 

 

『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons )(4)

 親しい人、愛しい人とのお別れは、人生においての苦しみであり、また、悲しみでもあります。その苦しみ、悲しみはだれしもが出会って行かなくてはならないものです。    

 「散る桜、残る桜も散る桜」といわれるように、いずれ散る桜となる時が来るのです。それを思うとき、きょう生きていることは不思議なことです。「一度限りの今日一日を大切に生きて下さいよ」と呼びかけて下さるように聞こえます。(砺波市 浄土真宗本願寺派西照寺前住職 故・今井正深)                             

 

 一寸先は闇です ( There is no knowing what will happen in an inch ahead. )。    

 あるガン患者の人の言った、「今日という日は、奇跡の一日である」、という言葉が忘れられません。今日を大切に生きなければ、と思います。                 

 

 

初積雪 ( The First Snow ) 

 2月6日、私の地域に、今冬ついに初積雪がありました。深さは約10cm。朝、カーテンを開けると外は白一色。辺りの木々がすべて白い花を咲かせたように、とてもきれいな風景が広がっていたのです。                              

 今冬、最強の寒波が日本全土を襲ったそうで、初積雪の所も多かったのではないかと思います。正直、ほっとしました。これまで、雪の積もらない冬を経験したことが無かったのですから。気候変動が問題になって久しい現在、                    

過去のノーマルな状態を懐かしむ事態にはなってほしくありません。( I do not want the

situation in which we miss the past normal condition. )

 

 

暖冬 ( A Mild Winter ) 

 1月20日大寒の入りから2月3日の節分までの、いわゆる大寒と呼ばれる期間中、「今年は暖冬異変と思われる現象が見られます。( We are having an unusually mild winter this year. )」。今冬は、私の知る限りでは、2月1日に約10分間みぞれ交じりの雪が散らついただけ、積雪はゼロで、かつて無かったことです。大寒中ずっと梅や、たんぽぽの花が咲き、フキノトウも出ていました。また、テレビの報道では、すでに田んぼの水の中に蛙の卵がありました。また、花粉の飛散が例年より20日余り早く、2月2日ごろから始まるとのことでした。気象情報では、今年の冬は過去100年で一番暖かいとのことです。もう既に暖冬異変による被害も出ているとか。                        

 因みに、暖冬から結びつくものに、オーストラリアの山火事があります。この山火事は、昨年の9月に発生して以来、今年の1月末日現在も一部の地域で続いているそうで、およそ5ヶ月に及ぶ長期の山火事になります。これもやはり地球温暖化が原因だといわれます。

 このようなことから、現世は不穏な世であると感じざるを得ません。( From such things I cannot help feeling that this world is an unsettled one. )

 不安に満ちたこの世だからこそ親鸞聖人は「生死出ずべき道」と、娑婆から抜け出す道を示して下さっているのです。