お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

「乃至(ないし)十念」の意味

 阿弥陀仏四十八願を立てられました。法然上人は、この四十八の誓願の中で「第十八の願」を本願中の王であると言われました。(『浄土真宗聖典』補注P.1572)

 第十八願の文はこのようです。「たといわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、我が国に生ぜんと欲(おも)いて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」

 ここで言われています「乃至十念」の意味を(『真宗の教義と安心』P.48)より引きます。「乃至十念というのは、称名の多い少ないを問わないということであり、さらに言えば称名の有る無しも問わないということであるこれは称名念仏によって往生成仏が決定するのではないことを意味している」。このように、乃至念十とは称名の有る無しも問わないということですから、突き詰めれば一遍も念仏しなくても問題ないということです。

 ところで、大事なことは念仏には必ず信心が具していることです。親鸞聖人は『信文類』に、真実信心必具名号(真実の信心は必ず名号を具す)と明らかにされています。ですので、信心を得たなら、念仏はせずにおれなくなるのも当然でしょう。

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」( If, when I attain Buddhahood, the sentient beings of the ten quarters who, with sincere and entrusting heart, aspire to be born in my land and say my name even ten times, should not be born there, may I not attain the perfect enlightenment. Excluded are those who commit the five grave offences and those who slander the right Dharma.              ( The Three Pure Land Sutras   VolumeⅡ) 

神棚を置かないのはなぜか?

 諸神・諸仏・諸菩薩をかろしむべからず。(「御文」)

 浄土真宗は、阿弥陀如来一仏を本尊とするので、他の神仏をたのむ必要はない。よって、阿弥陀如来を安置する御内仏(おないぶつ)があれば、神棚もまた必要がないこととなる。

 しかし、阿弥陀如来一仏のみを信じるからといって、決して他の神仏をないがしろにしていいわけではない。

 前掲の通りに浄土真宗門徒を戒めて、蓮如上人は「御文」第二条第三通に、

 「信心無き衆生がむなしく地獄に墜ちるのを悲しんで、なんとかして救おうとしてかりそめに仏となって、些細な縁をたよりとしてでも、仏法に勧め入れるための方便として、仏が神となってあらわれた(趣意)」

 と記している。つまり、他の神仏もまた、私たちを念仏へと導くための化仏(けぶつ)として丁寧に取り扱うべきである。

      【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編]  】

 

 「浄土真宗は、阿弥陀如来一仏を本尊とするので、他の神仏をたのむ必要はない。(There is no need for Shin Buddhism to rely on other God or Buddha, because it makes

only Amida Tathagata the principal image. )」と言われます。

 ですから、仏壇のある家には、神棚を置く必要はないと思われます。しかし、「決して他の神仏をないがしろにしていいわけではない」との言葉に気を配りたいと思います。

仏壇に故人の写真を飾ってはいけないのはなぜか?

 浄土真宗の仏壇「御内仏」は、阿弥陀如来の極楽浄土を表現した空間であり、本尊は阿弥陀如来一仏である。それ故、私たちは内仏の阿弥陀如来を拝み念仏を称えるはずなのに、故人の写真を拝み、手を合わせて念仏してしまうことになる。

 このように合掌礼拝対象である阿弥陀如来以外の写真等を御内仏の中に飾る必要はない。

 しかし、仏壇の外に飾ることは可能であろう。飽くまで、阿弥陀如来の浄土荘厳と、娑婆世界とが異なることを弁(わきま)えるべきである。

     【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編]  】

 

  上記に書かれている理由により、故人の写真を飾る場合は、仏壇の外に飾るように心がけましょう。( According to the above reason, we should take care to display the photo of the departed outside the family alter. )

浄土真宗は現世より死後のことを問題にしている?

 逆である。死後よりも、現世を重視している。現世において、まことの仏道を完成するか、それとも、仏法との出遇いなく、虚しく過ごすかを問いにしたのが親鸞だ。私たちが仏道を実践できるのは、この娑婆といわれる現世だ。生活の中で、称名念仏を中心として信心を開いていくことこそが、真宗の最大の課題となる。
 親鸞は、古来の浄土教解釈では、死後で初めて得られる利益と受けとめられてきた正定聚(しょうじょうじゅ)、不退転位に入ることを、現世今生の信心の利益として受けとめ、信心の人を、「すでに智慧をえて、仏になるべきみとなる」(『弥陀如来名号徳』)、「如来とひとしきひと」(『未燈鈔』)と明かした。
      【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編]】 】


 まず、この世に人間として生を受けることが何より大事なことです。そして仏法と出遇うことが「最大の課題となります」。
 三帰依文に「人身受け難し今すでに受く 仏法聞き難し今すでに聞く」とあります。人間に生まれることも難しいですが、仏法を聞くことも同じように難しい、といわれます。
 村上和雄さん(筑波大学名誉教授 分子生物学者)によりますと、天文学的確率で一人の人間が生まれるといいます。具体的には7兆分の1の確率で一人の人間が生まれるということで、生まれてくる確率はゼロに限りなく近いということです。
 「命の大切さ、仏法の大切さが、心底より感じられます。( We feel the importance
of life and that of Buddhism from the bottom of our hearts. )」
  参照 https://miko415.hatenablog.com/archive/2018/06/21
                      (人間に生まれる確率

真宗が祈祷を否定する訳 ( The Reason Why the Shin Buddhism Deny Player )

 「祈る」のは、私たち凡夫の心である。私たち凡夫の祈りは、私たちの欲望の心、自己中心的な思い、自己愛がまざりあって生まれてくるものである。
 そのような欲望から離れ、さとりをひらき仏となるようにというのが、仏の祈り(願い)である。祈りの中にある煩悩に気づき、仏の願いを受け止めていくのが、浄土真宗の念仏者のあり方である。
    【 『 ここがわからん  浄土真宗 』 大法輪閣編集部 [ 編 ] 】

 

 浄土真宗は、なぜ、祈祷(きとう)を否定するのでしょう。その訳は、「煩悩まみれの私たちの願いを仏さまに聞いてもらうのではなく、仏さまの祈り(願い)を聞くのが、私たち凡夫であるからです。( We do not have Amida Buddha hear our aspirations covered in blind passions, but we foolish beings do hear the Buddha’s Vow. )」

真宗と浄土宗の教えの違い

 まず前提として、祖師親鸞聖人にとっては、法然上人が説かれた教え(浄土宗)が、そのまま浄土真宗であったことは、親鸞聖人の残された言葉から明確である。
 しかし、現在の浄土宗と浄土真宗との間に種々の相違点が見られることも事実である。例えば増上寺にお参りすれば、境内でお守りが売られ、ご祈願が行われている。
 一方、浄土真宗の寺院にはお守りもご祈祷もない。念仏による往生を説くことは両者に共通しているが、煩悩に満ちた私たちが自力で作り出すものすべてが真実でなく、往生には一切不要であるとするところに、浄土真宗の特質がある。
 だから、完全な救いがすでに準備されているのであり、私たちから何かを願う必要がないと考えるのである。
    【 『ここがわからん 浄土真宗 』 大法輪閣編集部 [ 編 ]  】

 

 この本によりますと、本願寺は戦国時代に織田信長と戦いました。現在, 東、西二つの本願寺に分立していますが、ここに落ち着くまでには、江戸時代の徳川家康等の影響も受けているという長年の歴史上の背景があります。
 また、「両派は、分立後の歴史上の中で次第に違い(「なあみだぶつ」「なあみだぶつ」と念仏の音が違う、蓮如上人の手紙の呼び名が「ご文章(ぶんしょう)」「御文(おふみ)」と違う、「往生」を死ぬ前に使用するかどうか等)を生むが,教義については一致する面が圧倒的に多い」とも書かれています。

「教義については一致する面が圧倒的に多い」ことに、ほっとします。( I feel a relief
that the Shin Buddhism and the Jodo Buddhism have each other overwhelmingly
many sides agreeable with Buddhist doctrines. )

阿弥陀如来はどこにおられるの? ( Where Is Amida Buddha ? )その(2)

 「名体不二 ( The Name and Amida Buddha’s Body Can’t Be Dualized. )」とは、「阿弥陀仏の名号とその仏体とが一つであること」『浄土真宗聖典』です。ですから、私たちの口から念仏がこぼれる、まさにその場所には、阿弥陀仏が出現されているということです。また、心の中で念仏を称えることはよくありますが、その時は心の中に阿弥陀仏がおられることになります。
 前回、「阿弥陀仏は私たちのすぐ傍におられる」と書きましたが、すぐ傍どころか、心の中におられるのでした。
 このことに関して、大峯顯師は自著の中で、詳しく書いておられます。
参照https://miko415.hatenablog.com/archive/2013/08/04阿弥陀様はどこ・・・

阿弥陀如来はどこにおられるの? ( Where Is Amida Buddha ? ) その(1)

 「阿弥陀如来は、どんな仏さま?」
 「阿弥陀さんは、無量の光、無量の命の仏さまという意味です。だから、誰もがいつでも、仏さまの救いに包まれているのです」
 「じゃあ、阿弥陀さんは、どこにいるの?」
 「西の方へ、ずっとずっと行ったところのお浄土にいらっしゃいます」
 「それでは、西に向ってお礼をするといいですね」
 名前阿弥陀如来)や方角どこに)や、存在の有無いる)は、覚っていない私たちのこちらの世界の認識にすぎない。真理とは、それを超えたあり方である。
 しかし、一方で、その認識に寄り添って説示されることがなければ、こちらの世界に生きている私たちにとって、仏は失われ、仏となる道も失われてしまう。
 だから、阿弥陀如来は名前と場所のある仏さまとして説かれている
   【 『ここがわからん 浄土真宗』  大法輪郭編集部 [編]   】

 

 『阿弥陀経』には、「これより西方に、十万憶の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という」と書かれています。また、『観無量寿経』には、「阿弥陀仏ここを去ること遠からず」とあります。
 私たち凡夫には、浄土はあまりにも遠すぎて認識することはできません。ところが、覚りの世界におられる阿弥陀如来や、諸仏方からすれば、浄土と娑婆はとても近い存在だと考えられます。そのほんの一例ですが、『観無量寿経』には、「阿弥陀仏は神通如意(思うがままに、何事もできる不思議な働き)にして、十方の国において変幻自在(自由に現れたり消えたり、形を変えたりできる)なり」と書かれていることからも明らかです。
 それに距離が近い例として、阿弥陀仏のお力による還相回向の働きが挙げられます。この世で生を終えて浄土に生まれ、覚りを開いた仏方は、直ちにこの世に還ってきて、衆生済度に尽力されるということからも、阿弥陀如来がすぐ傍におられることが分かります。
 「阿弥陀仏は神通如意にして、十方の国において変幻自在なり。( Amida Buddha,
exercising supernatural powers at will, freely manifests his transformed bodies in the
lands of the ten quarters. )」

五劫思惟の願 ( The Vow Considered for Five Kalpas )

 Q 阿弥陀仏法蔵菩薩)の本願のことをよく「五劫思惟(しゆい)の願」といわれますが、どういう意味を表しているのですか。
 A 先にもうしたように、法蔵菩薩は、仏のさとりの領域が、そのまま衆生を迎え取る浄土となるような最高の仏国を建立し、さらに誰でも歩める究極の易行であると同時に、最高の徳をもっている称名念仏を往生の行として選び定め、生きとし生けるすべてのものを救おうという誓願を起こされましたが、五劫もの間、考えをめぐらされたということです。
 Q 五劫とはどれほどの時間をいうのですか。
 A 五劫の劫とは、カルパ(kalpa)の音訳語で、想像を絶する長い時間を表す時間の単位です。それにも盤石劫(ばんじゃくこう)とか、芥子劫(けしこう)とか、塵点劫(じんてんこう)というような異説がありますが、一番良く知られているのは盤石劫です。『大智度論』(だいちどろん)によりますと、縦・横・高さが、それぞれ四十里もある巨大な岩がある。そこへ、百年に一度ずつ天人が舞い降りてきて、その薄くて軽い羽衣(はごろも)で、一度だけ岩に触れるために、その巨岩が磨滅(まめつ)してなくなってしまってもまだ一劫にはならないほど長い時間であるといわれています。五劫とは、それを五回繰り返すのですから、私どもの想像を絶する長い時間を表しています。
    【 『親鸞聖人の教え・問答集』 梯 實圓  大法輪閣  】

 上記に、「四十里もある巨大な岩」とありますが、一里は約4㎞ですから、その岩は、縦・横・高さがそれぞれ40㎞もある巨大な岩です。このこと、一つから考えましても、一劫という時間の長さがどれほどのものであるか、ましてや、五劫ともなれば人知では想像すらできない長い時間です。正に阿弥陀仏は、無始(始めのない、限りなく遠い過去)よりこのかた、「生きとし生けるすべてものを救おうと考えをめぐらされた」ことが分かります。
 「阿弥陀仏の「五劫思惟の願」の背景にあるご苦労の、ほんの一端を垣間見させていただいた気がしています。( I feel I have had the honor of getting a glimpse of Amida
Buddha’s part of troubles which is at the back of the Vow considered for five kalpas.)」

『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons ) (15)

遠く離れていようと、生きてさえいれば、互いに会える可能性を残しています。野辺の送りの悲しみは、その可能性がゼロになるからです。出会いがあればいつか別れが来るのですが、特に今生のわかれとなると、それが肉親であっても、友人であっても「あなたに出会ってよかった、ありがとう」と言えるような別れでありたい。

 そして、もしお浄土での再会を約束できれば、別れの涙は仏法にあえた喜びによってやさしく包まれるでしょう。(砺波市 浄土真宗本願寺派傳教寺住職 吉江忠了)

    【『ありがたい深い話』野辺の送りー富山編 富山新聞社 】

 

 臨終に、浄土での再会を約束できる人たちこそ、この世に生を受けて最高の人生だったと、わが身を振り返ることができるでしょう。「聞き難い仏法です。出あえて良かったと心から思わずにはいられません( It is extreamely hard to hear Buddhism. I can't

help thinking from the bottom of my heart that it was very good for me to hear Buddhism. )」