お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

首長の優先接種は公正?( Is It Fair That the Lords Precede the Inoculation of the Virus Vaccine ? )

 最近の朝日新聞(大阪本社)が、自治体トップの首長が相次いで新型コロナウイルスワクチン接種を受けたことを報じていました。10名前後の名が挙がっていました。果たして優先接種したことは公正なのでしょうか。

 厚生労働省が示している優先接種の考え方では、医療従事者など・65歳以上の高齢者・基礎疾患のある人や高齢者施設などで働く人等が当てはまると言われます。そのため、このルールに照らすと、トップの市長や町長等への接種はルール違反に当たると考えられます。

 ところで、このような例は、国内に限らず国外でもよく見受けられることが、当新聞の『天声人語』(コラム欄)に書かれていました。そこで、特に印象的だった後半部分を引用します。

「・・・・・接種の進む米国でもルール破りは後を絶たない。接種の担当者が『きょうの分は尽きました』とウソをついて、何時間も並んだ高齢者を追い返す。こっそり親族や知人を呼び寄せ接種していた。65歳以上に限って接種した街では変装騒ぎも。30代と40代の女性がおばあさんのふりをして1度目の接種に成功、2度目で発覚したという。てんやわんやのワクチン狂騒曲が世界五大陸で鳴り響く。わが身かわいさゆえの企てが一度に噴き出し、地軸がずれてしまいかねない当節である」

 この記事には驚きました。正直、読まなければこのような事実があったことを知らずに終わっていたかもしれません。「天声人語氏」のことば通り、ワクチン狂騒曲が世界五大陸に鳴り響いているかのようです。

それにしても、「わが身かわいさゆえの企て」とは、人間のどうにもならない悲しい性(さが)なのでしょう。( Even so, “the attempt because of our bodily prettiness” is the sad nature which we can’t do anything about. )。でも、自制心は失わないようにしたいものです。

人間は何のために生まれてきたのか ( What Were the Human Beings Born for? )

 人間に生まれて 真理の声を聞かずに終われば 生まれてこなかったと同じだ。

                               (安田理深

 人間は何のために生まれてきたのか。それはお釈迦さまの「天上天下唯我独尊」という誕生宣言で明らかにされています。人間は独りにして尊ばれるいのちを持って生まれてきているのです。それは、おれだけが特別に偉いということではありません。人間は、何のために、何処に向かって生きていったらよいのか、これは人々の永遠なる課題でしょう。

   (略)

 安田理深(やすだりじん)先生は、「せっかく人間に生まれても、如来の真理の呼び声を聞かずに人生を終わったならば、生まれた意義も見いだされず、むしろそれは生まれなかったと同じである」と言われるのです。わたしたちのいのちは、人として生まれた意義を求めていく責任があるのです。それが如来の真理に目覚めることです。

     【 『 ひとくち法話 』  中村 薫   法蔵館   】

 

 冒頭の安田理深氏の言葉は厳しいですが、真実です。お釈迦さまは「天上天下唯我独尊」と、誕生宣言をされました。この意味は、中村氏が言っておられるように、決して自分だけが特別に偉いということではありません。この意味を、『広辞苑』には次のように書かれています。「(釈尊が生まれた時、一手は天を指し、一手は地を指し、7歩進んで、四方を顧みて言ったという語)宇宙間に自分より尊いものはないという意」。

 このように、全人類一人一人が、かけがえのない命を持って生まれてきているのです。この尊い命で何をなすべきか、

それは存命中に、阿弥陀如来の真理の声に目覚めることですね ( It is that we wake up to the voice of truth of Amida Buddha while we are alive. )」

藤の花の教え ( The Teachings of Wisteria Flowers )

 私のよく行く広々とした公園の一角には、藤棚があります。今を盛りと、藤の花が枝垂(しだ)れて咲く姿に、思わず見上げてしまいます。

 このように、藤と言えば「下がるほど 人が見上げる 藤の花」という歌があるのもうなずけます。

 藤の花に教えられて、謙虚な気持ちになる人も、また、そのように心がけようと思う人も多いことでしょう。そして、そのような人は他人から認められる存在になるのです。

 因みに藤の花の”花言葉”(花の一つ一つに象徴的な意味を持たせたもの。また、その象徴的な意味)は「歓迎」だそうです。私たち人間を喜び迎えてくれているのですね。

「下がるほど 人が見上げる 藤の花」( The more wisteria flowers hang down, the

more persons look up at the flowers. )

今日一日を無駄に過ごすことは ( To Waste a Day of Today )

   一日の空過(くうか)はやがて 一生の空過になる  (金子大榮

 時間は、人々に平等に与えられています。その時をどのように有効に使うかは、その人によるでしょう。

 子供の頃は、時はとても長く、その流れは遅く感じました。早く大人になりたいと思っていました。ところが、還暦を過ぎたいま、時がとても短く、早く感じるのは私だけでしょうか。老いを迎えて、与えられた時間をどう過ごすかは大変大事な事柄となってきました。寿命が百年時代と言われると、ありがたいけれど、何をして日暮らしをしたらよいか見つからない人もいると思われます。年金も少なくなると不安になります。

 人は、生涯において、若いときにしなければならないこと、また、年をとってからしなければならないこともあるでしょう。しかし、何(いず)れにしても大切なことは、今何をなすべきかを知ることです。今できる仕事が見つかった時、人は今を充実して生きていけるのです。金子大榮先生は、一日一日が大切であり、今日一日を無駄に過ごすことは、やがて生涯が空しく過ぎてしまうと言われます。明日の希望と夢は、今を生きることから始まるのです。

    【 『 ひとくち法話 』   中村 薫    法蔵館   】

 

 古歌の(詠み人知らずの歌)に、「世の中は今日よりほかは無かりけり 昨日は過ぎつ明日は知られず」、という歌があります。

 また、「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」、という歌は親鸞聖人が9歳で出家された時に歌われたものです。

 両方の歌共に、今日という一日が如何に大事かということを知らしめています。このように、仏教では無常を歌った歌が数多く残されていす。

 今日しかない、もっと尽きつめれば、今しかないということです。上記にありますように、「一日一日が大切であり、今日一日を無駄に過ごすことは、一生の空過になる」と金子大榮氏は警鐘を鳴らしておられるのです。

娑婆という世界 ( The World of Shaba )

 [ 娑婆 ] 梵語サハー( saha )の音写。忍・堪忍(かんにん)などと漢訳する。釈尊が教化するこの世界のこと。この土の衆生は、内にはもろもろの苦悩を忍んで受け、外には寒・暑・風・雨・などの苦悩を忍んで受け、これらを耐え忍ばねばならないから、忍土・忍界などという。また、聖者(しょうじゃ)も疲労や倦怠をしのんで教化するから、この土を堪忍土という。浄土真宗聖典』註釈版 (pp.1490 ~ 1491より)

 娑婆というこの世は苦もあり、楽もある世ですが、どちらかと言えば苦の方が多いと思われます。堪忍土と呼ばれる所以です。

 仏教では、衆生が善悪の業(ごう)によっておもむき住む六つの迷界、すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界を輪廻する」(『広辞苑』)と説かれています。

 ところが、以前, 何回か取り上げましたが、この娑婆に人間として生まれることは、難中の難であるのです。村上和雄氏(筑波大学名誉教授 分子生物学者)によりますと(<2020・6・12>当ブログより引きます)、超天文学的確率で一人の人間が生まれるということです。(具体的には7兆分の1の確率だといいます)。ですので、人間に生まれる確率は限りなくゼロに近いということです。

 娑婆というこの世でしか仏教は聞けないことを考慮しますと、今、この世に生きているチャンスを無駄にしないで、聞法に注力したいものです。( When we consider that we can hear Buddhism only in this world of saha, we should not waste the living chance in this world now, and we would like to do our best in order to hear Buddhism. )

やり直しのきかない人生ですが ( Though You Cannot Live Your Life Again )

  やり直しのきかない人生だが 見直すことはできる (金子大榮)

 人間だけは、過去・現在・未来の三世を通して生きています。過去の出来事を愚痴ったり後悔して生きているのです。また、未来の生き方に不安や恐怖を感じるのが人間です。確かなことは、そういう思いの中にあって、身の事実は今ここに生きているということです。今日の時代を考えますと後期高齢者問題が大きな課題になっています。病気や老いの問題は深刻です。そこには人間の孤独が見え隠れしています。「孤独を楽しむ」と言う人は孤独ではないと思います。

 そんな中、金子大榮(かねこだいえい)先生は、人生はやり直すことはできないが、見直すことはできると言われています。「病気になったら病人になりなさい」とも言われています。身の事実に樹(た)つということです。

 北海道の坊守さんで、ガン宣告を受けた鈴木章子(あやこ)さんは、苦しみの中から病気である身の事実を受け止め、ガンのお陰で人生を見直すことができたと言われました。章子さんは、「念仏の教えによってガンと共に人生の出発ができた」と言われるのです。

     【 『 ひとくち法話 』   中村 薫   法蔵館   】

 

 人は病気になったり、年老いたりしても、人生をやり直すことはできませんが、見直すことはできます。

 何か病気になった時。その苦しみから逃げていると、苦しみは追いかけてくるものです。そうではなく、その苦しみをしっかりと受け止めて、耐えることも必要であります。その上で、自分のできることをやっていくことで、何か良い発想も生まれ、その結果、苦が苦でなくなるのです。

 人生を見直すことで、生きる力が湧いてくるものです。( By going over the life, the

power to live will surge up. )

無常だからこそ ( Simply Because It Is Mutable )

   無常だからこそ 今日一日がありがたい ( 伊奈教雄 )

 お釈迦さまは、無常を説かれました。この世のすべて、常なるものは何もない。人間も生まれた以上は必ず死ぬのです。生きていれば年をとります。どんなに元気であっても病気になることがあります。生・老・病・死の四苦は、誰も逃れられない現実です。

 一般的に、お釈迦様は「いのちを大切に」とか、「人間に生まれたことを喜びなさい」と説かれたと思っている人も多いかもしれません。それはあながち間違いではありませんが、そのようには説かれていません。初めから人生は喜びいっぱいであるというよりも、むしろ苦を背負って生まれてきたのが人間であると説かれています。

 お釈迦さまは縁起の理法を説かれたのです。ものは縁により起こり縁により滅していくのです。わたしたちは分別により、好き嫌い、損だ特だ、良いか悪いか、と計算して生きています。だからこそ、そのような執着から解放され、今いのちをいただいて生かされてあることが尊いと言えるのです。真宗大谷派僧侶の伊奈教雄(いなきょうお)さんも、無常だからこそ、今日一日生かされてあるいのちがありがたく、尊いと言われるのです。

      【 『ひとくち法話』  中村 薫   法蔵館  】

 一日一日が無常だからこそ、今日という日がなお一層ありがたく、大切に感じられます。

 苦しむ衆生の姿を見て、仏さまは必ず救うという本願を立てられました。そして、現在もなお、衆生済度に活躍されているのです。

 そのお働きに感謝して、今日一日を過ごしたいと思います。( I’d like to live today being thankful for the working of the Buddha.)

出発の用意はできていますか ( Are You Ready to Start ? )

 つい先日は雨が降り、風も吹いていました。満開だった桜の花びらが所によっては一斉に散り始めています。その花の命は一週間ほど、と短命です。

 特に、この時期、新型コロナに見舞われている最中であり、新聞の報道によれば現在、国内での死者は9200人余、また、世界の死者は283万人余に至っています。人の命は実にはかないものと思わずにはいられません。

 このような状況下で思い浮かぶ歌に、「死に仕度 致せ致せと 桜かな」小林一茶)、「散る桜 残る桜も 散る桜」良寛)、があります。散りゆく桜は、あたかも両歌人の声となって警鐘を鳴らしてくれているような気がします。

永遠の命に遇って帰依する ( To Meet Eternal Life and Become a Buddhist )

   限りないいのちに遇って

   限りある身を尽くす   (金子 大榮)

 仏教では、無量寿なるいのちを説きます。南無阿弥陀仏とは、無量なるいのちと光を持った仏に絶対的に信頼して帰依する名告(なの)りです。ところが、われわれ衆生のいのちは限りある身を持った寿命であります。われわれは、生・老・病・死の四苦そのものの中に生きている人間です。

 お釈迦さまが、お弟子に「あなたは、あと、どれくらい生きられますか」と質問されました。最初のお弟子は、「来年のいのちは分かりませんが、今日一日は大丈夫でしょう」と答えました。するとお釈迦さまは、「あなたは分かっていません」と。二番目のお弟子は、「いま食事をしているこの一時は大丈夫です」」と。お釈迦さまは、「あなたも分かっていません」。三番目のお弟子は、「阿吽の呼吸の間です」と答えました。お釈迦さまは、「その通りだ。いのちはほんの「一瞬である」と答えられました。

 だから念仏とは、限りあるいのちを持ちながら、永遠なるいのちに帰依することです。限りないいのちによって誕生し、限りあるいのちを生き、また限りないいのちに帰っていく。それを金子大榮先生は、「限りないいのちに遇って限りある身を尽くす」と、限りある身の事実に樹(た)つことを教えてくださっているのです。

     【 『ひとくち法話』   中村 薫    法蔵館  】

 お釈迦さまは、人間の命は、ほんの一瞬であると教えておられます。この一瞬の命で何をするかが問われています。金子大榮氏は仏の教えを聞いて、永遠なる命に帰依すること。即ち「限りない命に遇って限りある身を尽くす」ことだと教示されています。

 一瞬の命、まず第一に自覚しなければならない、とても大事なことです。( Man’s life is momentary one. First and foremost, it is very important thing for us to be conscious of.)

私たちの日常生活 ( Our Daily Lives )

   「殺」の上に成り立っている日暮らし、

   それがわたしたちの日暮らしである。広瀬 杲

 仏教では、自ら殺すのと、他人に殺させるのと、どちらが罪が重いかと問います。また、知っていて殺すのと知らずに殺すのと、どちらが罪が重いかと説きます。常識的にみれば、自ら殺す方が悪い、知っていて殺す方が悪いと思うでしょう。しかし、仏教では、他人に殺させ、また知らずに殺す方が「殺」に対する自覚が乏しいので重いと説くのです。食卓に出された魚・肉を見ても「殺」に対する意識はないと思います。わたしたちが口に入れることのできるものは、もと皆いのちのあったものです。たとえば、牛は牛肉処理場で殺され、その牛を他人に殺させておいて平気な自分です。そこに牛の命を見出せない。そうした無自覚の人々の生き方が、多くの差別を生み出しています。これらの無自覚な人に対して、広瀬 杲(ひろせたかし)先生は、「殺」の上に成り立っているのが日常生活である、そのことを自覚せよと言われます。

     【 『ひとくち法話』   中村 薫   法蔵館   】

 

 私たちは、多くの動物を殺し、それを食糧としながら生きています。実に、ここで述べられていますように、無自覚で「殺」の上に成り立っているのが私たちの日常生活です。

 ところで、仏教では、三つの行為(三業)が説かれています。具体的には身(身体)・口(言語)・意(心)の三業です。この行為が未来の苦楽の結果を導く働きをしますので、善悪の行為は因果の道理によって必ずその結果を生むと教えられています。『広辞苑

 ですので、「殺」を免れないまま、私たちがこの世で生を終えるとすれば、悪因しか生じない未来が待っています。

 しかしながら、このような日常生活を脱するには結論として申しますと、阿弥陀仏の救いに与ることです。

この世での救いを教えているのが仏教ですから、必ず明るい未来が開けるのです。(It is

Buddhism that teaches enlightenment in this world, so it is sure that bright future

opens up. )