お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

なぜ釈迦牟尼仏が出現したのか ( Why Sakyamuni Buddha Appeared )

 如来の世に興出(こうしゅつ)したまう所以は 唯(ただ)弥陀の本願海を説かんがためなり 正信念仏偈」 釈尊が世に出られたのは、ただ、阿弥陀仏の大いなる誓いを知らしめるためでした)                                

 浄土教とよばれている流れにおきまして、常に阿弥陀仏という名の仏が出されてくるわけですが、それでは、この阿弥陀仏と、歴史上の仏としての釈迦牟尼仏との関係はどのようになっているのでしょうか。                            

 釈迦牟尼仏は今からおよそ二千五百年ほど以前に、現在のインド地方に現れた人物で、三十五歳のときに悟りを開いてから四十五年間、現在経典として残されているものの内容を説き続けた、とされています。浄土教の立場は、その期間に釈迦牟尼仏が説いたものこそが「浄土三部経」であり、その中に述べられているものを説くことこそが、釈迦牟尼仏がこの世に現れた本当の理由であった、というように受け取ったわけです。        

 だからこそ、親鸞は、まことにはっきりと、“釈迦如来がこの世に現れた理由は、阿弥陀仏がまだ法蔵という名の一菩薩であったときに立てた本願を説くためでした”という意味の言葉をここに出して、二人の仏の関係を明確にしたわけです。            

 ちなみに、阿弥陀仏は、実在した人物の名前ではありません。            

         【  『親鸞の人生訓』  花山勝友   】           

 

 阿弥陀仏とお釈迦さまの関係について書かれています。お釈迦さまがこの世に出現された理由は、阿弥陀仏の説かれた本願、すなわち、阿弥陀仏が誓われた四十八の誓願衆生に説くためでした。このように、親鸞聖人は二人の関係を明確に示されたのです。                                    

 ところで、お釈迦様は世界三大聖人(釈迦、キリスト、孔子)の一人であり、その上、仏さまですから、最高の聖人として信頼できる方です。                  

 このこと一つ取り上げても、仏語(仏教の教え)に虚妄なしと言われて当然です。( Even only from this fact, I think it natural that the Buddha’s words have no lie and deceit.)

 

 

どんなことでもしてしまうのが人間 (It Is Man Who Does Anything) 

 さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし 歎異抄』第十三章 (そのような因縁があれば、どんなことでもしてしまいます)                 

 “運命論”といわれる思想がありますが、これは、すべての行為は、目に見えない何ものかによって支配されている、といった考え方でしょう。仏教における因縁論も、いかにもこの運命論と似ているようにも見えますが、一つだけ大きな違いがあります。       

 それは何かといいますと、確かに現在行っている行為のすべては、過去のすべての行為である“縁”によって規定されている、という点では同じなのですが、因としての自らの意志をも認めている点なのです。すなわち、過去の行為によって確かに大きな影響を受けているのではありますが、単にそれだけではなく、その与えられている環境の中で努力するかしないかが、将来のその人の縁を作ってゆくのです。                   

 したがって、どんなことでもするのが人間ではあっても、そのような自分に気づくのと気づかないのとでは、それ以後の行動が違ってきます。それに気づいた人は、何とかしてそこから逃げ出したい、と願うことになり、さしのべられている阿弥陀仏の救いの手を頼りにするようになります。                                

         【 『親鸞の人生訓』  花山勝友  】             

 

 ここで、「因縁論」と「運命論」、この二者の違いが明らかに示されています。仏教における因縁論では「因としての自らの意志をも認めている」こと、すなわち「その与えられた環境の中で努力するか、しないかが、将来のその人の縁を作っていく」のであると説明されています。よって、自分の運命は決められたものではなく、変えることができるということです。                                       

 従って、「縁さえあればどんなことでもしてしまうのが人間です( If the karmic cause

so prompts us, we will commit any kind of act. )」が、そのような自分に気づき、(自らの意志で)悪い環境から抜け出そうと努力すれば、運命を変えることができるのです。   

 因縁論があってよかったというのが偽らざる気持ちです。              

 

 

「言葉」の本来の意味 ( The Primary Meaning of a Word ) 

 

 ブログ、B級手品師(日常編)、「言葉の意味 忘れたくない」(2019・11・07)を読ませてもらいました。「檄(げき)を飛ばす」の意味について書かれていますが、7割ちかくの人が「元気のない者に刺激を与えて活気づけること」と思っていました。本来の意味は「考えや主張を広く人々に知らせて同意を求めること」でした。私も含め多くの人が、本来の意味とは随分かけ離れた解釈をしていたことになります。                

 このような例は、仏教用語にもあります。前にも書きましたが、最たるものは「他力本願」という言葉です。他力本願の本来の意味は「阿弥陀仏の力をあてにすること」です。ところが現在ではもっぱら「他人の力をあてにすること」に転じています。このことに関しては、以前、真宗側と民間でいざこざが起きたことがあります。「他力本願」という言葉は本来の意味以外には使ってはならない、というのが真宗側の主張です。下記リンクを参照ください。                   

 https://miko415.hatenablog.com/archive/2018/09/25 (他力本願の意味)      

 

 

学問する必要は全くない ( It Is Quite Unnecessary to Learn ) 

 そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや 歎異抄』第十二章 (その他に、どんな学問が往生に必要なのでしょう)                                                      

 親鸞の弟子の中に、ひたすら念仏するだけではたして救われるのであろうか、といった疑いの心を持った者が出てきたために、わざわざ関東から京都に出かけてきて、師に質問したわけです。おそらく“やはり先生のように経典を一生懸命勉強しなければ、だめなのではないだろうか”といった気持ちがあったのでしょう。                  

 その質問に対する答えがここに出されているもので、まことに明快に、往生するためには、学問などはまったく不要であることが述べられています。                

 もし、救われるためには教義についての勉強が不可欠である、ということになりますと、教養や学歴のない一般大衆や就学前の子供などは、阿弥陀仏の本願で救われないことになってしまいます。しかし、頭ではわかっていても、直接師匠からそのように言ってもらうまでは、やはりどこかに不安が残るものです。                     

 そういった意味では、この言葉を聞いた弟子たちは、それまで抱いていたすべての疑いを晴らして、それこそはればれとした気持ちで関東に戻っていったことでしょう。     

        【 『親鸞の人生訓』  花山勝友  】              

 

 ここで、往生する(救われる)ためには、学問はまったく必要でないことが明らかにされています。このことに関して、蓮如上人は『御文章』に、「たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世を知るを智者とすといえり(たとえ文字を知らない無学な尼でも、浄土往生という大切なことを知っている者は智者である)」と言っておられます。         

 学問(のあるなし)と、浄土往生は無関係ということですね。( Learning has nothing

to do with one’s birth in the Pure Land. )

 

 

他宗の中傷を禁止 ( Forbidding Slander against Other Religions ) 

 蓮如上人は、『御文章』第一帖十四通において、わが浄土真宗の念仏者にあっては、ほかのもろもろの宗派の教えを中傷してはならないと言っておられます。何故かといいますと、どの宗派もみな仏の説かれた教えだからです。そして他宗に対しては、「自分が、それ(他宗)には従わないというだけのこと (It is I who do not follow the other religions. )」なのだと。    

 また、親鸞聖人も『歎異抄』第十二章において、他の宗教や宗派を誹謗してはならないと戒めておられます。お互いに誹謗し合えば、宗教同士の争いになってしまうからです。聖人は、浄土真宗は取るに足らない教えだ、というように何かと誹謗する人たちに対しては「私、親鸞にとっては真宗こそが、この上ない、最高の教えである ( It is Shin Buddhism that is the supreme teachings for me. )」というスタンスをとられ、争いを避けられました。                 

 私たちも、親鸞聖人や蓮如上人の姿勢に倣いたいものと思います。          

 

 

はからいを超えた念仏 ( The Nembutsu beyond Working )

 念仏には無義をもって義とす 歎異抄』第十章 (念仏には、教義なきを教義とします)

 “南無阿弥陀仏”と称えるのが、もし自分の意思や努力によって行われるとするならば、それは、一種の自力行為になるでしょうが、親鸞の場合は、念仏すること自体を阿弥陀如来の思いやりの心、と受け取ったために、称名念仏そのものを、自分の浅はかなはからいを超えた行為、と説いたわけです。そもそも、人間の自力などというものには限りがあるわけで、もし、自力によってでなければ念仏を称えられないし、そのような念仏でなければ救われない、ということになりますと、それこそ、百万遍称えてみても、とうてい阿弥陀如来の本願力にふさわしい念仏とならないかもしれません。                   

 ところが親鸞は、自力のはからいを捨てたところに他力の念仏を見出したわけで、どんなに凡人が頑張ってみたところで、仏の偉大な力には及ぶべくもなかったことになるのです。 

 だからこそ念仏は、どんなに人間が説明しようとしたところで、理屈で割り切れるようなちっぽけな内容を持ったものではなかったのです。すなわち、人間の言葉や思想を超越したしたところにこそ本願力の本義があるのです。                    

      【 『親鸞の人生訓』 花山勝友  PHP  】             

 

 上記では、義=教義という意味で書かれています。また、「念仏には無義をもって義とす」とありますが、これは「念仏には義なきを義とす」とも表現されます(『浄土真宗聖典』)。

そして、ここで義とは「はからい」(物事がうまく運ぶように考えて処理すること)という意味と、「本来の意義」という意味で使われています。つまり、「念仏には無をもってとす」=「念仏にはなきをとす」(人間のはからいを交えないことを本来の意義とする)ということになります。                      

 すなわち、念仏とは人間の理性や知恵で考えたような意味づけがないということであり、「人間の言葉や思想を超越した」ものであると言えるでしょう。            

 念仏には無義をもって義とす。( Concerning the Nembutsu, no working is true working.)

 

 

 

大音が響きわたる ( A Great Voice Is Ringing Out ) 

 最近のニュースによれば、アマゾンに生息する、ハトほどの大きさのスズドリという鳥が、世界で最も鳴き声が大きい鳥に認定されたそうです。その声の大きさは113デシベル(dB)といわれ、人の耳をつんざくほどの音だとか。                    

 このニュースから連想されたのは、「正覚大音(しょうがくだいおん)) 響流十方(こうるじっぽう)」(阿弥陀如来のさとりの大音は十方に響き渡る)『無量寿経(上巻)』という言葉です。音量のすごさを感じます。                         

 ところで、大峯顯師は自著『浄土の哲学(上巻)』(pp. 269 ~279)で、次のようなことを書いておられます。まず、名号「南無阿弥陀仏」は、如来が作られた言葉であり、断じて人間が作った言葉ではないこと。ですから、名号は自分の力で発せられるものではなく、如来が発せられた「南無阿弥陀仏」が自分に当たって口から出たもの、つまり「こだま」であること。これは、妙好人の浅原才市さんが「名号わたしに当たって南無阿弥陀仏」と言っていることからも明らかであること、等です。                      

 このような事から思うに、「南無阿弥陀仏」という如来の発せられる念仏は、それを称えるすべての人が結果として反復した(させられた)念仏だと言えます。ここで注目したいのは、如来からの豊かな声量はいかばかりでしょう。「私たちには聞こえないだけで、聞こえるとしたら(心地よい)大音だろうと推測します。( I think we cannot only hear the voice, so if we could hear it , I guess it would be a comfortable great voice. )」

関連記事です。今回書き足りなかった事を書いています。下記リンクを御笑覧下さい。  

   https://miko415.hatenablog.com/archive/2015/11/15 (正覚の大音)      

 

 

すべてまぼろし ( All Are Illusions ) 

 火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに歎異抄』後序 (火事のように無常なこの世界は、すべては夢かまぼろしで、本当に存在しているわけではありません)                           

 おそらくこの言葉は、親鸞が心から尊敬していたと思われる聖徳太子が遺した、「世間虚仮(せけんこけ)を受けたものだと考えられます。                  

 まことにこの人生は、いつかは必ず死んでゆかなければならないはかないもので、おまけに、その間に起こるすべての現象も、夢幻(ゆめまぼろし)のようなものです。     

 “火宅”とは、妙法蓮華経』の中に出てくる譬喩の言葉で、わたくしたちが住むこの世界は、ちょうどこの火事にあってまさに焼け落ちんとしている家のようなものだ、という意味です。                                     

 生まれたものはやがて死に、作られたものもいつかは滅びる。            

 というのが、この世の真実の姿なのですが、そのことに気がつかないで、ついついこの世に執着してしまうのが、欲望多き人間の常でしょう。そのような無常な人生に気がついたとき、それでは、わたくしたちは、いったい何を頼りに生きていったらよいのでしょうか。そして、頼りになる真実の存在こそが、大きな仏の本願であるのです。          

    【 『親鸞の人生訓』】  花山勝友  PHP研究所    】        

 

 甚大な被害をもたらした台風19号や大雨は、この2週間を経過した今(25日現在)も、被災地では無情にも断続的に雨が降っています。再び大雨警報が出されている所もあり、堤防や道路が決壊する不安も大いにあります。また、今までに90人以上の死亡が確認されていますし、行方不明の人たちもいます。このような状況下では、存在していたものが瞬く間に壊されたり、人の命もあっという間に奪われたりと、はかないものです。まさに火宅無常の世界であり、すべてまぼろしのようです。                     

 では、まぼろしでない真実の存在ってあるのでしょうか。幸いにもあったのです。   

 「ただ一つ、真実の存在、それは仏さまの本願です。唯一頼りになる存在です。( The

only true existence in this world is the Buddha’s Primal Vow, and it is the only reliable

being. )」

 

 

必ず浄土に生まれる ( Surely One Is Born in the Pure Land ) 

 

 『蓮如上人御一代記聞書』(二九八)には、「仏法においては、すべてどのような悲しみや苦しみにつけても、必ず浄土に往生させて頂くことを思うと、喜びが多くなるものである。( In Buddhism, even if any sadness or suffering would strike us, pleasure would increase when we think of having the great honor to go to the Pure Land. )」という主旨の文が書かれています。                                  

 信心を頂きますと、今死ぬといっても、恐ろしいという感情はなく、心の底にはいつも安堵感があります。つまり、一番恐ろしい死に対しても恐ろしいとは思いません。そして浄土へ往生させて頂く喜びが多くなるために、悲しみや苦しみは十分乗り越えていけるのです。

 私の場合、悩むようなことがあるとき、浄土へ往生させて頂くことを考えますと、どうしてこんなことで悩むのだろうと、それがちっぽけな事に思えてきて、悩みは解消、前向きになれます。                                    

 以前書いた、「いいじゃないの浄土があれば」です。下記リンクよりどうぞ。      

     https://miko415.hatenablog.com/archive/2014/01/09            

 

 

平凡な日々 ( Uneventful Days ) 

 台風19号が上陸してから6日目の17日の段階では、まだ台風被害がどれほどなのか、全容は明らかになっていませんでした。しかし17日時点での報道によりますと、全国で3万3千棟が浸水、全壊・半壊の家屋が1600棟に及んでいるということでした。また、農業の分野でも、収穫間際のリンゴ、柿、キノコ等が壊滅的被害を受けたという農家や、会社がありました。それに農家のある女性は、「精魂込めて育て、出荷するばかりに袋詰めにして保管してあった米が、水浸しになり台無しなってしまった。台風さえなかったら」と、涙ながらに話されていました。全く胸の詰まる思いです。                 

 その他、道路が崩れ落ちたり、地滑りなどを含め、さまざまな被害が発生しているといわれ、最終的な被害の全容が明らかになるまでには時間がかかるようです。        

 このような「今回の台風19号から知らされたこと、それは『平凡な日々』がどんなに有り難いことか、ということです ( What I was noticed again by typhoon No.19 was that

uneventful days are very grateful to me.)」。 当たり前のように思っている平凡な日々ですが、大事にしなければ、と改めて思います。そして一日も早い復興がなされますように。