煩悩の成せるわざ ( An Act of Worldly Desires )
「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり;故郷。迷いの世界)はすてがたく、いまだうまれざる安養浄土はこいしからずそうろうこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう;強く盛んなこと)にそうろうにこそ」 [『歎異抄』第九条 ](意味;果てしなく遠い昔からこれまで生まれ変わり死に変わりし続けてきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生まれたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです)。
前々回頂いたcarsa_jさんのコメントに「死にたくないと魂の底から叫ぶ私がいます」と書かれていましたが、上記、親鸞聖人のお言葉と重なります。今まで慣れ親しんできた故郷は離れがたく、愛着は尽き難いものです。誰もが、あの世への旅立ちの時に思うのではないでしょうか。
でも、浄土往生の定まっている人たちは、「死にたくない」とは思っても、「死ぬのが怖い」とは思いません。死にたくないという気持ちが起きるのは、煩悩のなせる仕業(しわざ)であり、往生浄土の妨げにもならないと教えられます。
「死ぬのが恐ろしい」という感覚が抜けたことが、何ともありがたいことです。( I am
indeed thankful to the Buddha that my sense of ‘being afraid of dying ‘ disappeared. )
『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons )(11)
明治期の大谷派の教学者・清沢満之師は、論語の「人事を尽して天命を待つ」という言葉に対して、「天命に安んじて人事を尽くす」と述べられました。清沢師は、死期の迫った身で、『他力の救済』という文章を著しています。
人間の一生は、辛いことや思い通りにならないことばかりですが、そこに安んじてゆける世界を見いだすことで、今有るいのちを最後まで懸命に生きることができるのです。(南砺市 真宗大谷派誓立寺住職 土屋紳)
【 『ありがたい深い話』 野辺の送り―富山編 富山新聞社 】
清沢満之師は、「天命に安(やす)んじて人事を尽くす」と言いました。清沢師の「他力の救済」という言葉からも「天命」とは「他力」のことだと受け取れます。ですから、「天命に安んじて人事を尽くす」とは、「阿弥陀仏のお働きに安心して我が身をお任せして、人間としてできる限りの事をする。( You leave yourself at ease to Amida Buddha’s workings and do as much as you can as a human being. )」ことだと言えるでしょう。
阿弥陀仏にお任せすることで、感謝しながら、力強く生きていくことができるのです。
未来が分からない不安 ( Anxiety to the Unknown Future )
4月4日付けの朝日新聞は、世界で猛威を振るう新型コロナウイルスの感染者が100万人を、そして死者数も5万3千人を超え、コロナウイルスとの未知の闘いに出口が見えないと報じていました。
未来がはっきり分からないことほど不安なことはありません。コロナウイルス感染が死と非常に近い関係にある今、「もし、死後どうなるのかわからなかったらとても不安です( We are very anxious if we do not know what happens after death. )」
どのような時でも安心して死んでいけたらどんなにいいでしょう。そのことを教えているのが仏教です。願わくは、仏教を聞いて誰もが安心して人生を終えたいものです。
『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons ) (10 )
他人の死に臨んで、人はだれしもが今ここに生きていることの不思議さを感じるでしょう。
亡くなられた人はこの世の縁尽きて横たわっているのですが、ここに座っている自分は縁尽きずにいることに説明がつかないのです。わが計らいを超えたいのちの存在の不思議に思い至ります。うかうかとはしていられない。いつ尽きてもよいといい切れる世界に出会わない限り、私の不安の世界も果てしがないのです。(南砺市 真宗大谷派長恩寺住職 土居文雄)
この話から思い出すのは、先月ネット配信された僧侶の一人、瓜生崇師が「私は死ぬのが怖かったから仏教を聞いたのです」と強調して言っておられたことです。私自身も、聞いたのは死ぬのが怖かったからです。
もし聞かなかったら「私の不安の世界も果てしがないでしょう( If I had not heard
Buddhism, the world of my anxiety would be endless.)」
『あいさつは心をつなぐ潤滑油』 (投稿)
(富山新聞「地鳴り」投稿欄に私の投稿が掲載されました)
私のウォーキングの場は、近くのサイクリングロードです。先日ウォーキング中、青年が元気な声で「おはようございます」と、先にあいさつをしてくれました。爽やかな気持ちになりました。
ある朝、80代とおぼしい女性に「おはようございます」と言うと「ああ疲れた、少し休むわ」と、足を止められたので、私も立ち止まりました。「散歩は気持ちがいいですね」などと、つかの間の会話なのに、2人の間に温かなものが通い合いました。
あいさつは、心をつなぐ潤滑油の働きをする大切なものだと思います。
あいさつと言えば、私は毎朝、仏さまにお参りします。「南無阿弥陀仏」と称名することで、仏さまと私の間に気持ちが通い合います。「いつもありがとうございます」とお礼の気持ちを伝えることで、「常に見守られている」という仏さまの気持ち(慈悲)を感じることができるのです。
「あいさつは心をつなぐ潤滑油です(Greetings act as a lubricant connecting our hearts.)」
実にすばらしい言葉 ( Really the Splendid Words )
煩悩にまみれた私たちは、常に苦しみや悩みに惑わされます。そのような時はどうしたらよいのか、大峯顯師は自著の中で、「阿弥陀仏に相談したらいいのです」と仰っています。たとえば、自身が「私は(これこれ、このようなことで)悩んでいますが、どうしたらよいのでしょう」と相談したとしますと、阿弥陀さまはいつも「『心配するな、お前は仏になる』と言われるのです」と。
この「心配するな、お前は仏になる」という阿弥陀仏の言葉は、「実にすばらしい言葉」であることを実感しています。「『仏になる』という言葉の前には心配ごとも、苦しみも, 打ち消されてしまうからです。( That’s because sufferings are denied by the words “ Never mind, you become a Buddha." )」。 私にとって、魔法のような言葉です。
※ https://miko415.hatenablog.com/archive/2014/04/11 (感応道交)
『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons )(9)
人の世は無常で、しばしば予期せぬ苦が訪れます。しかし、どのような人生であろうとも、そこから、生かされ、生きることを学び取ることができます。
生きていて良かったと、うなずくことのできる人生こそ、誠に尊く有り難い人生と思わなければなりません。そう思い至って初めて、逆境に陥ってもくじけずに、確かな歩みが続けられるのです。(上市町 浄土真宗本願寺派圓光寺副住職 村井敬成)
阿弥陀さまは私たち凡夫を、浄土へ生まれさせるという誓願を成就するために出現されました。ですので、生きていて良かったと思える人生とは、「阿弥陀仏の本願に救われる身になることだと言えるでしょう。( It can be said that we are enlightened by the Primal Vow of Amida Buddha. )」。言うまでもありません。阿弥陀仏より「南無阿弥陀仏」の名号を頂くことですね。
『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons )(8)
「生あるものはかならず死に帰し、さかんなるものはついにおとろうるならいなり」(蓮如上人御文)
現代の私たちは、ややもすると生のみを追い求め、死に関するものはできるだけ遠くへ押しやっており、死というものはだんだん見えにくくなって来ているようです。
生死は分けて考えるべきでないことを、亡き人を通して考えていただきたいものです。(氷見市 真宗大谷派光榮寺住職 峰了樹)
蓮如上人の言われる通りです。よく分かっていますが、「悲しいかな私たちは日頃は死ぬことを忘れて生活をしています。( Woe are we! We usually make a living having forgotten our dying. )」「生死は分けて考えるべきでない」とありますが、一日一日を無駄にしないためにも、「生死一如」という言葉を心にとどめたいと思います。