無為に生きて無為に死ぬ (To Live Naturally and to Die Naturally)
親鸞が八六歳のときに書いた書簡にあるのがこの言葉です。
自然とは、おのずからそのまま、そして法爾もまた、おのずからそのままです。つまり、「こうでなければいけない」「こうしたい」という人間としてのはからいをやめてしまって、すべてを阿弥陀仏にゆだねる。おまかせするというのが、この言葉の意味です。
先にもお話ししましたが、人間の本質とは老・病・死です。自然法爾とは、その本質を受け入れて自然のままに過ごすということです。
長生きするばかりが幸せなのではありません。幸せとは長生きの間にあるのではなくて、今ある生活のなかにあります。
自然のままに過ごしていった結果が長寿ならば、確かにありがたい話です。しかし、薬や機械のおかげで生きながらえているという長寿については、意見の分かれるところでしょう。あるがままに死と向き合うことが、結局は生を輝かせるのかもしれません、
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 成美文庫 】
ここで、「自然」も「法爾」も「おのずからそのまま」という、同じ意味であり、「人間としてのはからいをやめてしまって、すべてを阿弥陀仏にゆだねる、おまかせするというのが、この言葉の意味です」と説明されています。また、『広辞苑』には「自然法爾」の意味を「人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること。また、人為を捨てて仏に任せ切ること。親鸞の晩年の境地」とあります。
更に自然(=法爾)の意味を、「親鸞聖人は、人間のはからいを超えた如来のはからいによる救いをあらわす語とした」<『浄土真宗聖典(註釈版)』p.1488より> とも書かれています。
まず、阿弥陀仏の本願に救われて、晩年の親鸞聖人の境地と同じく、すべてを阿弥陀仏にお任せしましょう。( First of all, we are enlightened by the Primal Vow of Amida
Buddha and let’s leave everything to the Buddha just like Saint Shinran’s state in his later years. )
わからないことは考えない ( Not to Think What We Don’t Know )
莫妄想(まくもうぞう) / 無業
人は明日のことを思って不安に心を乱したり、過去のことを思ってクヨクヨします。
しかしどれだけ悩んでも、答えが出てくるわけでもありません、いくら考えてもわからないことを考えること、それが妄想です。そうした妄想を考えるなというのが莫妄想―妄想するなかれという言葉です。
無業(むごう)禅師は、「莫妄想」と、誰が何を尋ねても答えていたといいます。
実際私たち目の前で起こることや、心のなかに湧き上がってくることに対して、「これは考える必要のあることか」「考えても答えの出ないものか」判断せずに考えてしまうことがあります。
いま自分にできることは何か。
考えるべきはまずそこです。老後が不安というならば、今自分にできることをしっかり考える。考えてもどうにもならないことはあきらめる。そう考えるだけでも、心は整理されるのではないでしょうか。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』』 ひろ さちや[監修] 】
辞書には、「妄想」の意味をこのように書かれています。「あり得ないことをあれこれ想像すること」。上記には「いくら考えてもわからないことを考えること」と、あります。このような妄想によって、どれだけ考えても答えは出ないのですから無意味なこと、と言わねばなりません。いま自分にできることは何か。
結論は、「考えてもわからないことは考えない」ことですね。( The conclusion is that
we shouldn’t think what we don’t know even if we think it deeply. )
言葉は鋭い刃である ( The words are sharp blades )
自分を苦しめず、また他人を害しないような言葉のみを語れ / ウダーナヴァルガ
人間関係に上手な言葉は必要ありません。大切なのは「うまく話す」ことではなく「やさしく話す」ということです。
「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである」
と仏典にもあるように、もともと言葉は刃のようなもの。扱い方を間違えれば、思いもかけず多くの人を傷つけてしまいます。そして返す刃が自分自身も切り刻んでしまうのです。
それを避けるためにも大切なのが「自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ」という心がけです。
相手に合わせてばかりでは、付き合っていくのがつらくなります。本当の自分で付き合っているわけでもないので、いつ破綻するやもしれません。かといって自分勝手に振る舞うだけでは、相手を傷つけるばかりです。相手も自分も傷つけない。そんな心がけが大切なのです。 【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「人が生まれたときには、……………………その斧によって自分自身を斬るのである」と仏典に書かれていることに驚きました。如何に「言葉は鋭い刃である」かが実感できます。人に悪口を語るという悪因を残せば、仏教で教えられる悪因悪果によって、必ず相手から悪口を返されたり、憎まれたりというような悪果が生じます。つまり、自分の発した悪口で、その斧によって自分自身を斬ることになるというのです。
このような悪果を招かないために、「『やさしく話す』、『相手も自分も傷つけない言葉のみを語る』ことに留意したいと思います。( I want to take care “ to tell tenderly “ and “to only say the words which hurt not a partner nor myself.”)」
日々を気負いなく生きる ( Living Everyday without Bracing Oneself Up )
平常心是れ道 / 無門関
「道とはいかなるものですか」
弟子の趙州(ちょうしゅう)に聞かれた南泉禅師が答えたのがこの言葉です。平常心こそが道であるということですね。ただこれは、平常心を保つように努力せよということではありません。もし求めたりすれば、たちまち道は遠のいてしまう。そう南泉禅師は言っています。
あるがままに生きて、当たり前をきっちりする。日常をしっかりと、しかし気負うことなく生きる。そこに求めずして平常心はあるし、道ともなるということです。これは人間関係においても同じことがいえますね。
相手に好かれよう、気に入られようと思っていろいろやっても、逆にこびているように見られるだけです。
こびることなく、突っかかるのでもなく、ただ同じ娑婆世界に住む人間として、相手と付き合う。やるべきことはやって、やるべきでないことはやらない。そんなふだんの心構えが人間関係を変えていきます。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「気負う」の意味は辞書に、「自分こそはと意気込む」とあります。この意気込む気持ちを捨てて、平常心(=いつもと変わることのない平穏な心)で生きることの大切さが語られています。
「日々を気負いなく生きたいものですね。 (We’d like to live everyday without bracing ourselves up, don’t we.? )」
「何かのために」の「ために」を捨てよ ( Throw Away “for” of “for Something” )
無功徳 / 景徳伝燈録
将来のために貯金をする。若々しくいるために運動する。人は何かの「ために」努力をしようとします。それは、「善いことにつとめれば、善いことが返って来る」と考えているからです。
梁(りょう)の皇帝であった武帝も、そう考え仏教を厚く守護してきました。さぞや功徳もあることだろうと、禅宗の祖・達磨(だるま)大師に尋ねたところ返ってきたのがこの言葉 ― 無功徳(功徳なんてない)です。
仏教は努力することを大切にしていますが、それは幸せになるためにする努力ではありません。努力そのものを楽しむ、そうした努力です。
武帝は功徳なんかにこだわらず、ただ仏といる時間を楽しめばよかったのです。だから、そんな善行には功徳なんかないよ。達磨大師は、そう言っているのでしょう。
何かの「ために」と頑張るあまり、いまを楽しむことを忘れていませんか。人は「いまこの瞬間」にこそ、生きているんですよ。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
仏教でいう努力とは、「努力そのものを楽しむ、そうした努力」であるといわれます。そういえば、仏さま方は、還相回向という阿弥陀さまのお働きにより、この世で衆生済度に活躍しておられます。その時の仏さまのお気持ちは、遊びの境地で、つまり済度を「楽しんで」行っておられるといわれます。
「仏さま方の、楽しむという境地を見習いたいものです。( We would like to follow
Buddhas’ state. of enjoyment.)」。
すべて百点と考える ( Thinking All Is a Hundred Points. )
般若 / 般若心経
仏教の智慧は世間の智慧とは違っています。世間の智慧は善悪や優劣を分別して価値判断をしようとしますが、仏教は逆に「分別するな」と教えています。無分別こそが仏教の智慧 ― 般若なのです。
たとえば「美しいものを愛しなさい」と教えると、醜いものを人は憎むようになります。しかし美しいものは醜いものがあってこそ、その輝きがわかります。つまり美しいものにも醜いものにも、すべてに存在価値があるということです。それが「諸法実相」であり、仏教の智慧です。
美しいものがずっと美しいままでいることは、もとよりできません。すべて変わり続けるのが、この世のならいであるからです。
去りゆくものにしがみついてはいけません。やってくるものを避けようとしてはいけません。老いも病気も死も、避けようとして避けられるものではないのです。思い通りにいかないことは思い通りにしない。それを心に思うだけでも、苦は苦でなくなっていきます。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
最終部分「老いも病気も死も ……………………. 苦は苦でなくなっていきます」からは、仏陀の言われたという「苦しみが避けられないということを知っている者には、苦しみも悩みもない。( Those who know that they cannot avoid pain have no pain and anguish.)」という言葉を思い出しています。
※ 般若 [仏] 『広辞苑』
㋐心理を認識し、悟りを開くはたらき。最高の智慧。仏智。三学。六波羅密の一。
㋑大般若経の略。
楽しみを貪るな ( Don’t Devour Enjoyments )
まどへる人の楽と思ふは、苦をもって、楽とおもへるなり / 鉄眼道光
迷いのなかにある人が「楽」と思ふことは、実は楽はない。本来は苦しみであるものを、楽しみと受け取っているのだ。江戸時代に生きた禅僧・鉄眼道光(てつげんどうこう)のこの言葉には、そんな意味があります。
求めているものが手に入ったとき、人は幸せな気持ちになります。しかし、それを貪るようになってしまうと、楽しみはとたんに苦しみに変わってしまいます。「手に入れるとさぞかし楽しいだろう」と考える心が、人を押しのけ、相手を否定する心までつくってしまい、自分ばかりか周りの人まで悩ませてしまうのです。
「苦のやすまりたるを楽とおもへり」
と鉄眼も言うように、私たちが「楽」と考えていることは、実はいっとき苦がおさまった状態にすぎません。楽を求めても、求める先には苦しかないということですね。楽しみを求めるのではなく、いまを楽しみにする。その考え方が、老いを生きるためのヒントになります。 【 『老いを生きる仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「楽しみを求めるのではなく、いまを楽しみにする。 ( We should not ask for enjoyments but we should enjoy now. )」、実にすばらしい考え方だと思います。
すべてお見通し ( Looking Each of Us Through )
「疑いなく信じておまかせするもののことは、阿弥陀如来がよくご存じである。阿弥陀如来がすべてご存じであると心得て、身をつつしまなければならない。目には見えなくてもつねに如来がはたらきかけてくださっていることを恐れ多いことだと心得なければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。[『蓮如上人御一代記聞書』(八三)]
阿弥陀如来は私たちの心中をすべてお見通しであります。如来の本願を疑いなく信じて、お任せしているかどうかは、すべてご存知なのです。
「阿弥陀如来が常に働きかけて下さっていることを本当に有り難く思います。( I am very thankful to Amida Buddha to work on me always. )」
急げ! 急げ! ( Hurry Up! Hurry Up! )
蓮如上人は、「今日という日はないものと思いなさい」と仰せになりました。上人は、どのようなことでも急いでおかたづけになり、長々と時間をかけることをおきらいになりました。そして、仏法を聞く身となった上は、明日のことも今日するように、急ぐことをおほめになったのです。 [『蓮如上人御一代記聞書』(一〇三)]
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」この歌は親鸞聖人が9歳で出家される時、高僧の慈鎮和尚から「今日はもう遅いから、明日得度の式を挙げましょう」と、言われた時に返答された歌だと言われます。この歌からは、世の無常を強く感じます。
しかし、蓮如上人の「今日という日はないものと思いなさい( You must think that
you never have the day of today. )」という言葉からは、更なるインパクトを感じます。今日という日は、誰もが無常の風に誘われる日である可能性は十分にあり、無常の風は明日までさえ、待ってくれないのですから。上人の「急ぎなさい」と言われる気持ちが心に響いてきます。
どんな一日もよき一日 ( Any Day Is a Good Day )
日日(にちにち)是れ好日 / 録碧巌(へきがんろく)
「一五日已前(いぜん)は汝に問わず、一五日已後(いご)、一句を道(い)い、将(も)ち来(きた)れ(昨日までのことは問うまい。いま、お前たちはどう生きるのだ)」
雲門文偃(うんもんぶんえん)は、僧たちに向かって問いかけます。恐らく僧たちは何も答えなかったのでしょう。その問いに、僧たちに代わって自分で答えたのが」「日日是れ好日(毎日を好日にしなさい)」という言葉です。
好日とはいい日、吉日ですね、
私たちの人生は、好日ばかりではありません。好日と悪い日があるのは当たり前であり、必ずしも同じ割合でやってくるものでもありません。なかには、ほとんどが悪い日だと感じている方もいらっしゃるでしょう。
実際、毎日を好日に変えることはできません。しかし毎日を好日と考えることはできます。
つまり、どんな毎日も否定しないということです。病気の時はうんうん苦しみ、楽しいときは、思いっきり笑う。それが日日是れ好日なのです。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 成美文庫 】
「毎日を好日に変えることはできなくても、毎日を好日と考えることはできます(Even
if we cannot change every day into a good day, we can think it a good day. )」とあります。なるほど見事な捉え方だなと思いました。具体的には「どんな毎日も否定しないこと」とありますが、楽しい日も、また、たとえ病気で苦しい日であっても、それを受け入れていくこと(否定しないこと)が日日是れ好日だと言われます。諦観( [仏] 明らかに真理を観察すること。物事の本質を見きわめること。)という境地になることかな、とふと思いました。