お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

荷物は片手に持てるだけ

     知足(ちそく) 仏遺教経

 人生が旅であるならば、荷物はできるだけ少ないほうが、人生を楽しむことができます。

 その荷物のなかでも、ついたくさん抱えてしまいがちなのが欲望です。

 「もっとたくさん手に入れたい」

 「手に入れたものを放したくない」

  思えば思うほど、抱える荷物は大きくなっていきます。しまいには荷物に押しつぶされそうになりながら、よろよろと旅を続けている。それがいまの私たちではないでしょうか。

 「たくほどは風がもてくる落ち葉かな」

 煮炊きをするためだったら、風に散った落ち葉でことたりる。良寛和尚が俳句に詠んでいるように、人生に必要なものは少ないほうがいいのです。

 これからの人生は、楽しむための旅です。多くを求めず、いまあるもので満足する。仏教の説く知足の考え方が大切です。

      【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 「知足」とは、「現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと」『広辞苑』です。荷物の中でも「欲望」という荷物が一番多い、と言われます。多くを求めず(欲を起こさず)、今あるもので満足することが大切だと諭されます。

荷物は片手に持てるだけ ( Have baggage you can only do with one hand. )

断捨離

 前回、一遍の残した言葉、「一切を“捨離”すべし」を取り上げました。ここでの「捨離」と同義の「断捨離」という言葉が現在よく使われています。

 この「断捨離」に関して、少し気掛かりなことがあるのですが、そのことについて書かれていることを、フリー百科事典『ウイキペディア』より引きます。「新型コロナウイルス感染症の流行(2019年-)で食糧品や日用品などの入手性が悪化したことにより、備蓄を持たない生活のデメリットが浮き彫りになった。ミニマリストの中には、考えを改める例が見られ、今後は備蓄に取り組む「プレッパ-」が増加すると予想されている」というのです。因みに、プレッパー ( prepper ) とは、「備蓄に取り組む人」のことです。

 コロナ禍の最中、備蓄も必要かな、と思われますが、あくまで執着しない範囲で行いたいですね。

断捨離 (“getting rid of the clutter in your life and living with the bare minimum of things.”)

捨てると自由がやって来る

    一切を捨離(しゃり)すべし一遍

 「成し遂げたい」「手に入れたい」

 そうした思いが人生を前に進めてきたことを否定はしません。ただ、手にしたものは本当に必要だったのでしょうか。欲望に踊らされて、必要ではないものまで、手に入れようとしていないでしょうか。

 古代ローマでは、宴会でたらふく食べた後、もっと食べるために、胃のなかにあるものを吐き出して、また鯨飲馬食(けいいんばしょく)をしていたといいます。

 私たちは何も所有することがなく、裸で生まれてきました。本来無一物である存在が人間です。お金にしても、権力や名誉にしても巡り合わせで手にすることがあるだけで、必ずしも自分のものではありません。

 にもかかわらず、そこにしがみついてしまうことに苦しみが生まれます。「もっと、もっと!」と手に入れ続けて、動けなくなるのが私たちではないでしょうか。自由に動くためには、まず捨てることです。

 一切を捨離して、世の中を眺める。そこにあるがままの世が映るのです。

    【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 文中に「鯨飲馬食」とあります。その意味はこのようです。「いちどに度はずれて飲み食いすることのたとえ。鯨が飲むように大酒を飲み、馬が食べるように大食する、の意から」(『故事ことわざ辞典』より)。

 私たちの、物事に対する執着が如何に強いかを表しています。結果、「しがみついてしまうことに苦しみが生まれます」。

 苦しまないためには、真逆の執着心を捨てることだといわれます。捨離することで苦しみから解放され、自由になれるからだと。

 捨てると自由がやってくる ( Get rid of unnecessary things and you get freedom in

your life. )。

勝ち負けにとらわれない

 勝つ者は恨みを受く

 負(ま)くる者は夜も眠られず

 勝つと負くるを離るる者は

 寝ても覚めても安らかなり (『法句経』)

 上記は『イヤな思いがスーッと消えるブッダのひと言』(高田明和)に紹介されている言葉です。

 「勝つ者は恨みを受く」とは、勝った者は相手のねたみから恨まれることになり、「負くる者は夜も眠られず」とは、負けた者は悔しくて夜も眠られなくなる、ということです。

 生きていく上で、勝敗はつきものですが、その「勝敗にとらわれない」ことで、いつも穏やかでいられると教えられています。

 「寝ても覚めても安らかなり」、心に響く一言です。

勝っても負けてもとらわれない ( Don’t be prepossessed by win and loss. )

怨むから苦しくなる (You Suffer because You Have a Grudge against a Person)

   怨(おん)を以て怨に報(むく)いれば怨止まず最澄

 人生とは理不尽の塊(かたまり)です。頑張ったからといってうまくいくとは限りませんし、突然大きな病気にかかってしまうことさえあります。心から信頼している人からひどい裏切りを受けることさえあります。

 そんなとき、「やられたらやり返せ」とばかりに怨みをぶつけても、何の解決にもなりません。大きなことはもちろん、たとえ小さなことであっても、憎しみの連鎖は重ねるべきではありません。

      (略)

 怨憎会苦(おんぞうえく)といって、仏教では憎んでいる人と会うことを人間の根源的な苦しみにあげています。つまり、怨まないということは、相手のためだけではなく、自分のためにも大切なことなのです。

     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]    】

 

 仏教では「因果応報」と教えられます。「過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずること」『広辞苑』。

 最澄の言葉は「怨めば怨み返される(憎めば憎み返される)」ということで、怨み(憎しみ)の連鎖は続いていきます。因果応報ですね。

 「怨憎会苦」という言葉が挙げられていますが、この根源的な苦しみから解放されるためには「怨まないこと」だと言われます。

 「怨まないということは……………………………自分のためにも大切なことです」という「最後の件(くだり)が身に染みます。( The last passage of the text sinks deep into

my heart. )」。

すべては人生の薬となる ( All Is Medicine of Life )

   医王の目には、途(みち)に触れて、皆薬なり空海

 「優れた医師の目で見ると、道端に生えている草でさえ薬になる

 空海の言葉は、「歪んだ眼鏡で物事を眺めていませんか。目の前に起ったことの意味を、思い込みだけで判断していませんか」と私たちに問いかけてきます。

 病気にかかることを人は嫌がりますが、「もっと身体に気をつけよう」という気づきを与えてくれます。老いもまた「これからは無理せず、ゆっくり生きよう」という薬になります。将来のことが頭をよぎれば、これもまた薬になります。そう考えてみると、すべては人生の薬なのですね。

 ところで医王という言葉は、釈尊を指す言葉でもあります。それは、患者の病気に応じて医師が薬を与えるように、釈尊が相手に応じて法を説くからです

 目の前にある価値に気がつかないのは、私たちが世間の物差しで見ているからです。仏の物差しで見れば物事ははっきり見えてくるのです。

     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 「優れた医師の目で見ると、道端に生えている草でさえ薬になる」と、草でも価値があると言われます。上記にありますように、病気にかかったら「もっと身体に気をつけよう」 という気づきを与えてくれるので、「病気にかかること」が価値あるもの、つまり、薬になるというのです。

 このような観点からしますと、日々、見たり、聞いたり、考えたりすることも、あるいは色々の行為等も、すべてが人生の薬であるといわれます。

 また、「医王という言葉は釈尊を指す言葉でもある」のですから、私たちは物事を世間の物差しで見るのではなく、「仏(=釈尊)の物差しで見ることだと啓示されています。(The Buddha reveals that we should see things with the Buddha’s ruler.)」。

人事を尽くした後で ( After You Do Your Best )

 前々回の当ブログ(8月29日)で、「人間としてのはからいをやめてしまって、すべてを阿弥陀仏にお任せする」ことが大事であるという主旨の文を紹介させて頂きました。因みに「はからいの」の意味は、国語辞典によりますと、「考えて処置すること」です。そこで、このお任せするタイミングですが、それをいつにしたらいいのかが問われると思われます。考えて処置するということですので、どれくらい考えてのことなのか、あるいは考えてもわからない時などは、すぐにお任せしてしまってもいいのか等、悩ましいところです。

 ところが、この疑問に対しては、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉にその回答がありました。つまり、「人間としてできる限りのことをして、後は天命に任せる」ということです。

 浄土真宗の立場からすれば、「人事を尽くした後で、阿弥陀仏にお任せする」ということですね。

 人事を尽くして天命を待つ: Do your best and leave the rest to Amida Buddha.

ただ「いのち」として生きる ( Living Only as “Life” )

       身心一如  /  道元

 私たちは心だけで生きているわけでないでもないし、肉体だけで生きているわけでもありません。「こころ」と「からだ」は、一つになった「いのち」として生きています。

 身体に無理をかけていると、やがて心にも不都合が現れます。心に迷いを抱え続けると、身体にも影響が現れます。心と身体は分けて考えることができないものなのです。それがこの言葉の意味であり、仏教の基本的な考え方でもあります。

 人は「歳を取っても若々しくないと」と、心に負担をかけることばかりやってしまいます。身体の面でも、若者に負けない体力を目指したりして逆に身体をこわしてしまう。これでは本末転倒です。

 身体も人の心も変わっていく。それをまず心において、心身ともに大切にしていく。身体を大切にすることが、心を大切にすることになり、心を大切にすることが、身体を大切にすることにもつながっていくのです。

      【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 「身心一如」とは、心と身体を分けることはできないということです。ちょうど「名体不二」(阿弥陀仏の名号とその仏体とが一つであること)<『浄土真宗聖典(註釈版)』p.1542> という言葉がありますが、「一如」は「不二」とも言えるでしょう。

 心の負担は身体の負担になり、身体の負担は心の負担になると言われます。心も身体も同じように大切にして、両方が一つになった「いのち」として生きていくよう教示されています。

 心身一如:Body and mind can not be dualized.

無為に生きて無為に死ぬ (To Live Naturally and to Die Naturally)

    自然法(じねんほうに) /  親鸞

 親鸞が八六歳のときに書いた書簡にあるのがこの言葉です。

 自然とは、おのずからそのまま、そして法爾もまた、おのずからそのままです。つまり、「こうでなければいけない」「こうしたい」という人間としてのはからいをやめてしまって、すべてを阿弥陀仏にゆだねる。おまかせするというのが、この言葉の意味です。

 先にもお話ししましたが、人間の本質とは老・病・死です。自然法爾とは、その本質を受け入れて自然のままに過ごすということです。

 長生きするばかりが幸せなのではありません。幸せとは長生きの間にあるのではなくて、今ある生活のなかにあります。

 自然のままに過ごしていった結果が長寿ならば、確かにありがたい話です。しかし、薬や機械のおかげで生きながらえているという長寿については、意見の分かれるところでしょう。あるがままに死と向き合うことが、結局は生を輝かせるのかもしれません、

  【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  成美文庫  】

 

 ここで、「自然」も「法爾」も「おのずからそのまま」という、同じ意味であり、「人間としてのはからいをやめてしまって、すべてを阿弥陀仏にゆだねる、おまかせするというのが、この言葉の意味です」と説明されています。また、『広辞苑』には「自然法爾」の意味を「人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること。また、人為を捨てて仏に任せ切ること。親鸞の晩年の境地」とあります。

 更に自然(=法爾)の意味を、「親鸞聖人は、人間のはからいを超えた如来のはからいによる救いをあらわす語とした」<『浄土真宗聖典(註釈版)』p.1488より> とも書かれています。

 まず、阿弥陀仏の本願に救われて、晩年の親鸞聖人の境地と同じく、すべてを阿弥陀仏にお任せしましょう。( First of all, we are enlightened by the Primal Vow of Amida

Buddha and let’s leave everything to the Buddha just like Saint Shinran’s state in his later years. )

わからないことは考えない ( Not to Think What We Don’t Know )

      莫妄想(まくもうぞう) /  無業

 人は明日のことを思って不安に心を乱したり、過去のことを思ってクヨクヨします。

 しかしどれだけ悩んでも、答えが出てくるわけでもありません、いくら考えてもわからないことを考えること、それが妄想です。そうした妄想を考えるなというのが莫妄想―妄想するなかれという言葉です。

 無業(むごう)禅師は、「莫妄想」と、誰が何を尋ねても答えていたといいます。

 実際私たち目の前で起こることや、心のなかに湧き上がってくることに対して、「これは考える必要のあることか」「考えても答えの出ないものか」判断せずに考えてしまうことがあります。

 いま自分にできることは何か

 考えるべきはまずそこです。老後が不安というならば、今自分にできることをしっかり考える。考えてもどうにもならないことはあきらめる。そう考えるだけでも、心は整理されるのではないでしょうか。

    【 『老いを生きる 仏教の言葉100』』 ひろ さちや[監修]    】

 

 辞書には、「妄想」の意味をこのように書かれています。「あり得ないことをあれこれ想像すること」。上記には「いくら考えてもわからないことを考えること」と、あります。このような妄想によって、どれだけ考えても答えは出ないのですから無意味なこと、と言わねばなりません。いま自分にできることは何か。

 結論は、「考えてもわからないことは考えない」ことですね。( The conclusion is that

we shouldn’t think what we don’t know even if we think it deeply. )