お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

仏より賜った悟りの智慧 (The Wisdom of the Enlightenment Given by the Buddha)

 死ぬときには死ぬ時の瞬間があり、生きている時も生きているときの瞬間しか生きられない。われわれは、生死を貫く永遠の生命をこの瞬間の中に把握しなければならないのです。

 仏法、殊に浄土真宗ではこの一瞬を凡夫の智慧とは見ず、仏より賜った悟りの智慧として最も大切に扱っています。

 他力、仏力、本願力とは一念回向の信力であり、三世を貫いて不滅であるのです。(小矢部市 真宗大谷派元布教使 故・広瀬龍雄)

     【  明日をひらく 『 一期一話 』  北國新聞社   】

 

 一寸先は闇、と言われますように、ほんの先のことも全く予知できないのがこの世の中です。ですから、「われわれは、生死を貫く永遠の生命をこの瞬時に把握しなければならない」と言われ、そのため、「この一瞬を仏より賜った悟りの智慧として最も大切に扱っている」宗、説明されています。慎重な配慮に感心します。

阿弥陀仏に救われた人こそ最も幸せな人である

1948年、73歳でお亡くなりになった飛騨高山の中村久子さんは、突然性脱疽(だっそ)を患い、両手両足のないままのご生涯を深く生きられました。

 中村久子さんが、口でお書きになった字や絵は、両手両足のある私達には及びも付かない立派なものでした。

 お念仏の生活にまだ入らない頃に作られたお歌に「宿世にはいかなる罪をおかせしや

 おがむ手のなきわれはかなしき」があり、本願念仏のみ教えを聴聞され、お念仏の生活に入られてからのお歌にはが「手はなくも足はなくともみ仏の そでにくるまる身は安きかな」があり、そこに、安心と満足と喜びをもって生きられた人生が、限りなく開かれていたのでした。(珠洲市 真宗大谷派了覚寺住職  中野 昭)

      【 明日をひらく 『 一期一話 』  北國新聞社 】

 

 中村久子さんという方は、突然性脱疽という想像を絶するほどの難病を患われたのでした。しかし仏陀の言葉にありますように、「苦しみが避けられないということを知っている者には、苦しみも悩みもない」と、中村さんは病気から逃げるのではなく受け入れられたに違いありません。そして仏の教えを熱心に聴聞し、阿弥陀仏に救われたのでした。

 山あり谷あり、どちらかと言えば苦しみの多い人生です。このような中、

The very person who was saved by Amida Buddha is the happiest one. (阿弥陀仏に救われた人こそ最も幸せな人)だと思います。

後生の一大事 ( A Serious Matter after Our Death )

 「おいくつになりましたか」、「七十と二つになりました。毎日忙しく、お仏壇にもお寺にもお参りする暇がないんです」、「お元気でお仕事にがんばれることは、何よりもお幸せですね」、「日本人の平均寿命を八十歳としますと残すところ十年を割りますね」、「そう考えると、毎日忙しく駆けずり回っていることが、あほらしくなりますよ」。

 ご門徒のお父さんのお話しです。

 何事も不確かな世の中。あれやこれやと目まぐるしく、あわただしく過ぎ去って行く日々。

 こんな中で、仏様にお参りする仏縁によって、私たちは「後生の一大事」に気づかせていただくのです。

 「死」に思いをめぐらせ、生きる意味を考え、今日の一日をより充実させ、歓喜と報恩感謝で過ごせるようご縁をいただくのです。(金沢市 真宗大谷派聞名寺住職 小坂 央)

      【  明日をひらく 『 一期一話 』  北國新聞社   】

 

 「仏様にお参りする仏縁によって ”後生の一大事” に気づかせていただく」、とても重い言葉だと思います。仏縁がなければ、後生に一大事があることを知ることはないでしょう。

申すまでもありませんが、気づかせていただくからこそ、阿弥陀仏の本願に出遭い、浄土往生が定まるのです。

俱会一処(くえいっしょ)

 俱会一処; 阿弥陀仏の浄土に往生して、浄土の懐かしい人々と共に一処に会同すること。( Those who carefully listen to the teaching want to attain enlightenment and be reborn in the Pure Land, and then they see good old people again in the Pure Land. )

 私はこれまで祖父母、両親、夫、数名の叔父や叔母、従妹(いとこ)等、何名も縁者を見送ってきました。これら、縁のある人は皆、真宗門徒でした。叔父の一人は僧侶でもありました。そのような環境の中で育った私は幼い頃から、お仏壇にお参りするのが普通になっていました。

 冒頭に書いた通り、この世に生を受けて、今生で阿弥陀仏の本願に救われた人たちは、浄土に往生して懐かしい人々と一処に再び会うことができるのです。

 ただ注意しなければならないことは、以前よく聞いた言葉ですが、「死んだら仏」「死んだら仏」とよく言われたものです。幸いこの頃はあまり聞かれないようですが、死ねば誰もが仏になるわけではないのです。あくまで、阿弥陀仏の教えを疑いなく聞いた上で、浄土往生が定まることを念頭に置かなければなりません。

念仏の人生 ( The Life in the Nembutsu )

 親鸞聖人は『愚禿鈔』に「本願を信受するは前念命終なり。即得往生は後念即生なり」と。力強いおよろこびが示されています。本願の名号を信受するとは、仏のお呼び声の届けられた今、温かい胸の中に抱きこまれ、摂取のみ手にかかえられ、「前念命終」迷いの命は終わったんだよということです。

 「即得往生」今日からは一足一足浄土へ生まれる旅が始まり、仏のみ光りの中を明るく一日一日を生き抜くところに、念仏の人生があると教えて下さっています。富山市 浄土真宗本願寺派浄源寺前住職 故・篁 龍證<たかむら りゅうしょう>)

      【  明日をひらく 『 一期一話 』  北國新聞社  】

 

 「念仏の人生」とはどういう人生なのか、とても分かりやすく解説されていて心に響いてきます。最高の人生ですね。

世の中は「今」しかない(The World Exists Only ”Now”)

 蓮如上人は「アミダ如来の御袖にひしとすがりまいらせて」と言われました。現代に生きる私たちは何にすがって生きているのでしょうか。財産を第一としその生き方は快楽を求めているにすぎないのではないか。「東井義雄」という方の言葉に「明日がある、あさってがあると、思っている間はなんにもありはしない、かんじんの今さえないんだから」と言われました。人生の最後を迎えるとき「私の人生これでよかった、間違いなかった」と思えるときは、物やお金でなく毎日の生活の中で仏様の言葉に出あい、自分自身を知らされ続けていく「今」という時を頂くことが大切ではないでしょうか。(白山市 真宗大谷派西念寺前住職 庄田 影)

     【  明日をひらく 『 一期一話  』  北國新聞社  】

 

 「世の中は 今よりほかは無かりけり 昨日はすぎつ 明日は知られず」という歌があります。全くその通りです。

 阿弥陀仏は、このようなはかない世だからこそ、ただ今助けると尽力されているのです。阿弥陀仏の本願を疑いなく聞いて、救われるのは「今」なのです。留意しましょう。

浄土への縁を与えて下さる仏 (The Buddha Who Gives Us the Chance to the Pure Land) 

 無宗教の人は、人間が死んだら何も残らない無と考える。信心の人は、人間界が終わると同時に「おらが」という主体は仏の世界に生まれると頂く。その仏は常に行動する仏である。その代表的な活動を還相回向という。「煩悩の林に遊んで神通を現じて、生死の園に入りて応化を示すと言えり」。私を浄土へ案内するために「時に応じて親となり子となり、恋人、仇人(あだびと)となり、報土への縁をお与え下さるのです。(射水市 浄土真宗本願寺派浄全寺前住職 故・海内慶静)

    【  明日をひらく『 一期一話 』 北國新聞社  】 

 

 「還相回向とは浄土に往生して後、この世界に戻って一切衆生を教化し共に往生すること。浄土真宗では、その能力も弥陀の力によるものとする」(『広辞苑』)

 すべて阿弥陀仏のお力により、なされることがわかります。また上記に「神通を現じて」とありますが、このことを『仏説観無量寿経』(註釈版第二班 浄土真宗聖典)P.107には、神通如意にして(意味;思うがままに、何事もできる不思議な働き)、十方の国において変幻自在なり」と書かれています。

 ですので「時に応じて親となり子となり、恋人、仇人となり……….. 」と言われていることがすーっと受け入れられるように思うのです。

 私の場合、今は亡きあの人を思い、あの人は恋人であり仇人でもあったなぁと、この説法を読ませて頂いて感じている次第です。浄土への縁を頂き、ただ感謝です。

夢の世 ( The World in Dreams ) 

 古歌に「夢の世に 夢見て暮らす夢人が 夢物語するも夢かな」という歌があります。この世は、すべて夢であると如実に歌われています。この世を夢で終わらせないためには、仏教を聞くことが求められています。仏教では、せっかく生まれ難い人間に生まれても、仏教を聞かずに終われば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの迷界を永遠に流転しなければならないと教えられています。

 そのため阿弥陀如来は、衆生を憐れみ無始よりこの方、衆生済度に努めてこられているのです。

 私たちは、夢を見るためにこの世に来たのではありません。如来の教えを疑いなく聞くために出生したのです。今生にこそ、夢の世を卒業しましょう。

死にたくない ( We Never Want to Die )

 『歎異抄』九条で、親鸞聖人はこのように仰っています。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)は捨てがたく、いまだ生まれざる安養浄土は恋しからず候こと・・・」(意味;果てしなく遠い昔からこれまで生まれ変わり死に変わりしてきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生まれたことのない安らかな浄土へも早く行きたいとも思わない・・・)

 当節、世の中は新型コロナウイルスの蔓延で危機的状況にあり、ワクチン接種が急ピッチで進められています。ごく最近の国内の死者は1万2700人余、世界の死者は349万8000人余、との報道がありました。

 しかしながら親鸞聖人は、たとえ現在のようなコロナ禍や死者数の増加など(苦悩に満ちた世でも)強く心を引かれ、捨てがたいと言われるでしょう。また、まだ行ったことのない浄土へも早く行きたいとも思わないと仰しゃるでしょう。それは、ひとえに「死にたくない」という気持ちがあるからです。この聖人の気持ちは、他ならず万人の気持ちと同じです。

 ところで、親鸞聖人はどうして「死にたくない」と言われたのでしょう。その理由は、全て私たち凡夫の煩悩の所為(= しわざ)だと承知しておられたからです。つまり、人間が持つ煩悩のせいだからなのです。

エベレスト登山者がコロナに感染 ( The Climbers in the Everest were Infected with Corona Virus. )

 「世界最高峰のエベレスト(標高8848メートル)の登頂を目指し、ふもとにあるベースキャンプにいたノルウェー人男性が新型コロナウイルスに感染したと、AP通信などが4月23日に報じた。男性は病院に搬送されて治療を受け、現在は退院しているという。いつ感染したかは分かっていない。・・・・・・同行していたネパール人ガイドも陽性だったと言う。

 新型コロナに感染すれば、呼吸器に症状が出る。標高が高い地点では呼吸自体が難しく、登山者間で感染が拡大すれば症状が悪化するリスクが高い」(朝日新聞デジタルより)

 

 世界最高峰のエベレストでも、新型コロナウイルスの感染者が出ていたことを知りました。コロナウイルスは、人間のいる場所を選ばず、どこへでも追っかけて行くようです。その上、標高の高い所では、呼吸自体が難しく、症状が悪化するリスクが高いということで、より一層、危機感が高まります。

 ところで、日本でも今、コロナウイルス接種にようやく拍車をかけています。昨年からずっと思ってきたことに変わりはなく、ワクチン接種による、新型コロナウイルスの一日も早い収束が待たれます。