相手を疑わず、素直な心で聞く ( We Should not Doubt a Companion , and Listen to Him Meekly )
きくといふは、本願を聞きて疑ふこころなきを「聞」といふなり(一念多念文意)
「阿弥陀さまの声(教え)を疑う心を持たずに聞くことこそ、〝聞”というのである」と親鸞はいいます。疑いのない素直な心で教えをいただくことができたとき、初めて真理にたどりつけるのです。
私たちは相手の言葉を聞いているつもりでも、いつの間にか自分の思いや感情がそれを上回ってしまうことがあります。相手に対して疑いの心を持っていると、自分のためにかけてくれた言葉にさえ、「私を陥れようとしているのかもしれない」など、曲がった解釈をしてしまいかねません。
他人の話を聞くとき、まずは、自分の考えを挟まずに素直な心で受け取ってみましょう。きっと、言葉だけでなく、相手の思いまで理解できるはずです。
【 『 繰り返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
本願を聞くということは、「本願を聞いて疑う心がないこと」だと言われます。このことを実践できれば心理にたどりつけるのだと教えられます。
聞法だけに止まらず、日常においても、他人の話を聞くときは、疑いの心を持たないようにすることが大事だといわれるのです。疑いの心を持っていると、素直に相手の言うことが『その通り、その通り』と聞けないからです。書かれていますように、「自分の考えを挟まずに素直な心で受け取ってみること」が大切なのですね。
日々の行いが自分をつくる(Daily Acts Make Oneself )
卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし (歎異抄)
私たちが発する些細な言葉や、ちょっとした振る舞いにもそれまでの生き方が表れています。初対面の人との会話の中にも、その人の普段の考えや経験を垣間見ることができるでしょう
親鸞は、「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆえなり」に続いて、「うさぎや羊の毛の先についているちりほどの小さな罪でも、前世、過去の行いによらないものはない」といいます。
どんなに小さなことでも、日々の行いや考えは積み重なって自分自身をつくっていきます。年を重ねたとき、どんな自分になっているかは、現在の自分にかかっているのです。
【 『 繰り返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
どんなに小さな良い行いでも善因善果になりますし、また、どんなに小さな悪い行いでも悪因悪果になります。日々の善行・悪行が将来の自分をつくっていくことになります。できるだけ善い行いを積み重ねたいものです。( I will do my best to pile up good acts )
よい結果は自分だけで得たものではない ( The Good Results Are Not Gotten by Only One’s Efforts )
よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆえなり(歎異抄)
私たちはよいことが起これば、有頂天になって喜びます。悪いことがあれば落ち込み、どうしようもない怒りを他人にぶつけてしまうこともあるでしょう。しかし、仏教においては、よいことも悪いこともすべて過去からの積み重ねられた業(宿業)によるものとされています。「よい心が起こるのも、過去から積み重ねられた善の働きによるものである」というこの言葉にあるように、私たちは、この世で宿業を引き受けながら生きているにすぎないのです。
ですから、よい結果にも「自分の努力によるものだ」と傲慢になってはいけません。また、つらい出来事で自分を責める必要もありません。起きていることを、ただありのままに見つめれば、善悪を超えた気づきを得ることもあるでしょう。
【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
「仏教においては、よいこともわるいこともすべて過去から積み重ねられた業(宿業)によるものとされている」のですから、「私たちは、この世で宿業を引き受けながら生きているにすぎないのです」という言葉からは、宿業の強い重みを感じます。また、「起きていることを、ただありのままに見つめる」必要性を感じます。
よき友を大切に ( You Should Value Your Good Friends )
善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ説きおかれて候へ (親鸞聖人御消息)
「善知識」とは、よき友や、自分のことをよく知ってくれている人、教え導く人のこと、「同行」は同じ教えのもとに結ばれた仲間を指す言葉です。親鸞は善知識や同行とは親しみ、そばにいるべきだと説き、彼らを侮ったり、軽蔑したりすることは重い罪であると非難しています。
仲間の励ましによってどん底から立ち直れることもあれば、身近な人の甘い言葉で思わず道を踏み外しそうになることもあるでしょう。どんな人とつき合うかによって人生が大きく変わります。お互いの生き方を尊重しながら、よい影響を与え合うことのできる人こそ、あなたにとっての善知識です。
思いやりを忘れず、いただいた縁を大切にしましょう。
【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
よき友を大切にすることで、自分も友から大切にされることになり、お互いによい影響を与え合うことが大事だと思われます。
そして、親鸞聖人の言葉通り、善知識・同行には親しみ近づくよう、心がけたいものです。
いつも見守ってくださる力がある (Amida Buddha Has Power That Always Watch Us)
「他力本願」という言葉は日常的にもよく使われますが、本来は浄土仏教の根幹となる思想を表すもので、「阿弥陀さまの本願(他力)の力(によって救われる)」ということを意味します。
浄土仏教の根本経典である「無量寿経」には、「浄土に生まれたいと願って念仏する人をすべて救います」という誓いがあり、その阿弥陀さまの願いによって人々は浄土に往生することができるのです。
私たちは迷いの世界の中で、悩み苦しんでいます。「自分はこんなに努力しているのに、なぜ報われないのか」と感じることもあるかもしれません。しかし、阿弥陀さまはそんな人々のことも見守ってくださっているのです。
「自分でなんとかする!」という態度を見直すところから始めてみるのはいかがでしょうか。
【 『 繰り返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
迷いの世界にいる私たちは、常に悩みや苦しみを抱えています。そんな私たちだからこそ、阿弥陀さまは哀れみ、見守ってくださっているのです。「自分でなんとかする!」という態度を捨て、阿弥陀さまの他力に一任することが肝要です。
悩み苦しむ人ほど救われる ( Those Who Worry and Suffer Are More Saved )
善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや (歎異抄)
「善人でさえ浄土に往生できるのだから、まして悪人ならばいうまでもない」というこの言葉は、『歎異抄』の中でも最も有名なものの1つです。初めてこの言葉を聞く人は疑問を感じるかもしれませんが、この言葉こそ『歎異抄』を象徴するものであるといえるでしょう。
ここでいう「善人」とは、修行などにより自力で悟りを得ようとしている人のことです。そして「悪人」は、様々な煩悩を抱えながら悩み、迷う人たちのこと。つまり私たちのことを表します。自力で往生しようとしている人さえも阿弥陀さまは救ってくださるのだから、苦しみの世界にいながら阿弥陀さまを頼る人ならば、なおさら往生できるということです。迷いながらも、必死に救いを求める私たちの手を、阿弥陀さまはまず先につかんでくださるのです。
【 『 繰り返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
ここで言われている、善人、悪人についてまとめますと、善人とは自分の力で、つまり、自分の行で浄土へ行けると思っている人です。また、悪人とは、自分を悪人と自覚している人で、阿弥陀さまに頼らなければ救われないと思っている人です。
当然ですが、自力では救われず、他力で救われるということですね。
弟子も、ともに歩む仲間である ( Disciples Are Also Company to Walk Together )
親鸞には「歎異抄」の著者とされる唯円(ゆいえん)のほか、多くの弟子がいました。しかし、親鸞は「弟子は一人も持っていない」というのです。それは、仏さまの前ではどんな人も同じ道を歩む者であり、そこに優劣など存在しないということ。様々な派閥で弟子を囲いこんだり、宗教間で争いを繰り広げていた当時の風潮を批判する言葉でもあります。
現代に生きる私たちも、立場が上がるにつれて部下や後輩ができたり、物事を教えることが増えてきます。しかし、視点を広げてみれば、皆が同じ目標に向かって進む仲間ともいえるはず。傲慢になることなく、ともに歩む姿勢を大切にしましょう。
【 『 繰り返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
親鸞聖人が、「弟子は一人も持っていない」と言われたのは、「仏さまの前ではどんな人も同じ道を歩む者であり、そこに優劣など存在しない」からでした。そして、「皆が同じ目標に向かって進む仲間である」と思っておられたからでした。つまり、聖人は、すべての人は、仏さまの前では平等であると心得ておられたからです。それに、「宗教間で争いを繰り広げていた当時の風潮を批判する言葉でもあります」という文言も見逃せません。
仏さまからいただく信心で救われる (We Are Saved by Shinjin Given from the Buddha)
正定(しょうじょう)の因はただ信心なり(正信偈)
私たちは「信心」というと「自分が起こすもの」「自分が強く心に思うもの」と捉えがちですが、他力の信心というのは阿弥陀さまからいただくものです。そのいただいた信心こそが、私たちを救ってくださるというのがこの言葉です。
「正定」は「正定聚(しょうじょうじゅ)」を略した言葉で、「確実に浄土に往生でき、悟りへ達することが定まっている位(境地)を表します。以前の浄土教では、「臨終の際に念仏すれば罪が滅し、浄土に往生できる」と教えられていましたが、これに対し親鸞は「罪を消すために念仏することは“自力”にあたる。阿弥陀さまから他力の信心をいただいたそのときに、正定聚につかせてくださるのだ」と説きました。臨終の際ではなく、信心をいただいたその瞬間に、往生することが決まるのです。
【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
信心というと、「自分が起こすもの」「自分が強く心に思うもの」と捉えると、自力になってしまいますし、親鸞聖人が言われたように、「我が身の罪を消すために念仏することも「自力」の信心にあたると教えられます。
なぜなら、「他力の信心というのは阿弥陀さまからいただくもの」だからなのです。
「『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と書かれているように、仏願に疑いがないから他力の信心がいただけるのです。
与えられた信心で浄土に導かれる (We Are Led to the Pure Land by Given Shinjin)
信心の定まるとき往生また定まるなり (末灯鈔)
『歎異抄』の最後の部分にこんなエピソードが記されています。親鸞は、師である法然の兄弟子の前で「自分の信心も法然さまの信心も同じである」といったのです。それに対し、兄弟子たちは反論しますが、親鸞は「信心は仏さまよりいただくものであるから、同じ1つのものである」と答え、それを聞いた法然もその言葉を支持しました。信心は知恵や学識に関係なく、誰でも等しいものなのです。
何かうまくいかないことがあったとき、「もっと頑張らなければ」などと考え、今の自分とは違う何者かになろうとしてしまうことはありませんか。努力するのはよいことですが、まずは今のありのままの自分をしっかり見つめることが大切です。阿弥陀さまは誰にも等しく信心を与え、浄土に導いてくださるのです。
【 『 繰り返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗 リベラル社 】
「信心は仏さまよりいただくものであるから、同じ1つのものである」といわれます。阿弥陀さまは、一人一人のありのままの自分を等しく救ってくださるのです。誰でも同じ信心をいただけるのは、いいものです。仏さまは人々を皆、平等に見ておられるからですね。
「この道しかない」という覚悟で歩む
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ(歎異抄)
親鸞は教えを乞いに来た人たちに向け、「たとえ法然聖人に騙されて、念仏して地獄に落ちてしまったとしても、後悔することはない」といいました。「他の修行で仏になれるはずだった自分が、念仏をしたために地獄に行ったのであれば騙されたと思うかもしれない。しかし、どのような行も満足に行えない自分はもともと地獄行の身であり、念仏の道しかない」というのです。
親鸞は厳しい修行に挫折し、絶望したからこそ、法然の説く念仏の道に光を見出しました。「自分にはこの道以外はないのだ」と確信したとき、その行き着く先がどのようなものであろうと、疑うことなく歩いていけるのです。
【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 撤宗 リベラル社 】
親鸞聖人は、法然聖人の教えに絶対の信頼を置いておられたからこそ「疑うことなく歩いていける」と確信されたのです。仮に騙されて地獄に落ちたとしても、後悔の念にかられることもないと、「念仏の道に光を見出された」のでした。親鸞聖人の強い覚悟が伝わってきます。
「この道しかない」という覚悟で歩む ( I make up my mind that there is no other way except this way. )