本物と偽物(A Genuine Thing and Imitation )
慶聞坊は教えられた。「阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあわずに、欲望の眼で生活して行くと、間違いなく一日一日暗い地獄に向かって行く。その場だけのにせものの明るさは、今は明るくても、必ず暗くなる。外側だけ見ていると、ほんものとにせものは、一見似ているから、見分けがつかないだけだ。生きていることが当たり前になって、いつまでも人生が続くような気がしているが、それでは人生が空しくなる。今日一日しかないと思って毎日生活するがよいと、先人も教えられていますよ」と。
【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英 法蔵館 】
世の中には、本物と偽物は一見似ていることから、見分けがつかないことが多々あるものです。そのことを考慮して、先人が教えらるように「今日一日しかない」と思って毎日生活するのが一番良いと思います。
とげとげしてはいないか(Acrid )
阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあったならば、道を求める仲間たちを言葉荒く罵(ののし)るなどということはありえない。心は和らいでくるはずだ。阿弥陀如来の眼には、めぐりあうものは心柔軟になるという働きがある。阿弥陀如来の眼に背を向けるならば、何でも俺が、私がというように、自己中心的になり、言葉も荒くなり、争いも起きるのだ。何と浅ましいことであろうか。よくよく気をつけるがよい。
【 現代語訳『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英 法蔵館 】
阿弥陀如来の眼には、めぐりあうものは心柔軟になるという働きがあると言われます。反対に阿弥陀如来の眼に背を向けるならば、とげとげしくなるのは必然的なことです。このことをわきまえて、とげとげしてはいないか、十二分に気をつけるべきだと教示されています。
片付けてはいけない (We Don't Keep up the Hanging Scroll )
蓮如さまは、善従に、掛け軸を与えられたことがあった。しばらくたってから、蓮如さまは善従に、「前に書いてあげたものをどうしたかな」と尋ねられた。善従は「表装して箱にいれ、大事にしまってあります」と答えた。すると蓮如さまは「それは宝の持ち腐れだ。いつも見えるところに掛けておいて、その言葉のように生活せよ、ということだったのに」と、残念そうに教えられるのだった。
【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英 法蔵館 】
とかく、大切なものは、大事すぎて見えるところには掛けたり、置いたりしないものです。蓮如上人の言われるように、宝の持ち腐れになると言われても仕方ありません。自分自身も気をつけなければならないと反省しています。
願いに生きる ( We live for the Wish )
蓮如さまがご病気のとき、教えられた。「私は何も思い残すことはない。私に都合の悪いことなど一つもないのだ。だから今、息絶えても、何も後悔しない。ただ子供たちや、まわりの人たちの中に、まだ阿弥陀如来の眼で生活していない者がいるのが悲しい。世間には、この世に思い残すことがあれば、死後の黄泉の国への旅の障害になる、という言葉があるが、私にはそのような恐れは少しもない。ただ残る人たちが、阿弥陀如来の明るい眼と無縁になることだけが悲しいのだ」と。
【 現代語訳『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英 法蔵館 】
蓮如上人は、ひとえに、まだ救われていない人達が、阿弥陀如来の明るい眼とめぐりあうことを願っておられます。また、蓮如上人が、阿弥陀如来の明るい眼と無縁になることだけが悲しいという、つまり、悲しみを避(さ)けたいという心からの願いが伝わってくるようです。
願い (The Wish )
蓮如さまは、善従のことについて話された。「山科にまだ本願寺を建てるなどという話が起こる前に、善従が神無森(かんなもり)を通って近江へ向かうとき、乗っていたお籠から降りて、いまの山科本願寺の方を指差して、「このあたりに必ず仏法が繁盛するに違いない」と言われた。同行した人々は、「善従さんは、年を取って頭がおかしくなったのではないか、」などと言い合っていたが、このように御坊も完成し、仏法の里になった。不思議なことである」と。また蓮如さまは、「善従は法然さまの生まれ変わりだ、と、世の人々は噂していますよ」とも言われた。善従は、八月二十五日に往生された。
【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英 法蔵館 】
善従には、山科本願寺のあたりに必ず仏法が繁盛するに違いないという、先見の明を見抜く見識があったのだと思われます。また、蓮如上人は善従は法然上人の生まれ変わりであることも、そのように受け止めておられたのでしょう。仏法の信奉者は、教理を信じ尊ばれるのです。見習う点がたくさんあります。