お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

いのちの有限性の自覚 ( Realizing Limitedness of Life ) 

 あるお坊さんが、「わしの死ぬところをみんなにみせるように」と遺言して亡くなったそうです。人間は死ぬのだ、ということを子や孫たちに実地に教育するためでした。このお坊さんにかぎらず、おじいさん、おばあさんが「人間はこういうふうにして死ぬのだ」と自分の死ぬところを子や孫に体験させるのは、先に逝く者の最後の大事な務めだと私は思っています。                                     

   (略)                                   

 平均寿命は八十年だとか言われますが、それはすべて統計の話で、自分がどうなるかはまた別の話です。一応のめやすとなっても、そのとおりに生きられる保証は何もありません。やりたいこと、なすべきことがあるのなら、それに向かって少しずつでも歩きだしましょう。いのちが有限であるなか、ほんとうに大切なことを探して生きるようにしたいものです。 

         【 『人生は価値ある一瞬(ひととき) 大谷 光真  】          

 

 大谷師が上記、最初の段落で、なぜこのように述べておられるのか、その背景には、「私の父は九十歳で亡くなりました。その父の老いて亡くなる姿を目にして、私自身どう老いていけばよいかなど、老いや死をより具体的により深く考えるようになったからです」と、この段落に続いて言っておられるのですが、その理由があったのです。            

 「いのちが有限であるなか、ほんとうに大切なことを探して生きるようにしたいものです。( When we think of limitedness of life, we’d like to live by finding out the really

important thing. )」。「命の有限性を自覚すること」の大切さがよくわかります。     

 

 

孤独を恐れない ( No Fearing Loneliness ) 

 人間は基本的に孤独です。生まれてくるのも独りなら、死んでいくのも独り。自分の人生を誰かほかの人に代わってもらえない以上、その孤独を直視して生きていくしかありません。       (略)                             

 誰かに心を癒してほしい、私の話を聞いてほしいと願うのは、しょせん受け身でしかありません。待っているからだんだん孤独が深まるわけで、この社会のかかえる問題を身近なところから考えて、少しでもよくするために動き出してみる。たとえばボランティア団体など自分の利害と関係しない“人とのつながり”に参加し、自分から心を開いていけば、孤独は解消されていくのではないでしょうか。                       

      【 『人生は価値ある一瞬(ひととき)』 大谷光真  】        

 

 孤独といえば、「引きこもり」の人を思い出します。引きこもりの結果、孤独死するケースが後を絶たないと言われるからです。                       

 平成30年年度の内閣府の「生活状況調査」では、中高年の引きこもりの人が61万3000人いることがわかりました。                            

 大谷師が言われるように、受け身ではなく、「自分の利害と関係しない“人とのつながり”に参加し、自分から心を開いていく」ことが大切ではないかと思います。引きこもりに関するある専門家の話によると、「引きこもりになるきっかけは、他人との関係における挫折体験から起こるものなので、そこから抜け出すきっかけもまた、他人とのかかわりによってもたらされるもの」だからです。                           

 孤独を恐れない身でありたいものです。( We’d like not to fear our own loneliness. )

 

 

寄り添う ( Standing Close ) 

 

 困った人がいれば気にかけて同情することは、無関心より人間として好ましいと言えます。                                       

 しかし、自分自身は安全圏に身を置きながら、「可哀想だな」と上から目線で被災者に同情の目を向けるのは、同情されたほうからは、「勝手に涙を流してくれてもうれしくない」と必ずしも好意的に受け止めてくれないばかりか、むしろ反発さえ招きかねません。   

 自分では相手に寄り添ったつもりであっても。安全圏にいるかぎりは、家を失い、家族を失った被災者と同じ立場にはなりえないと自覚しておく必要があります。        

 もし、同じ立場になったなどと思ったとしたら、それこそ思い違いでしかなく、かえって相手を傷つけるだけです。                             

 相手と同じ立場にはなかなか立てないと自覚しつつも、なんとか立とうと努力する。  

 そこから出てくる態度は、たとえ限界があるにしても、同情よりは一歩進んだ「寄り添い」になるのではないでしょうか。                           

      【 『人生は価値ある一瞬(ひととき)』 大谷光真  】         

 

 今年も多くの人が台風や豪雨で被災しました。その状況を見て、大変だろうなと、お気の毒に思いました。でもその大変さは、どんなに想像をめぐらしても、実地に体験した人の心の域には及びません。大谷師が言われるように、                   

 「できるだけ相手と同じ立場に立とうとする努力が大切です。( It is important to make an effort as much as we can in order to be at the same situation as the others. )」。

 「寄り添う」の意味を今一度深く考えさせられました。               

 

 

虹の掛け橋 ( A Rainbow Bridge ) 

 ある人が、「朝に大きな虹を見て、幸せな一日でした」と書いていました。私も先日、それは大きな虹を見たのです。いつ見ても感動を覚えます。               

 虹は人をこの世から浄土へ渡す掛け橋のように感じます。( A rainbow seems to be a

bridge which gets a person across the bridge from this world to the Pure Land. )

 幸せを感じる虹の掛け橋です。                          

 

 

憎しみも怒りも自分の心から生じる (Hatred and Anger are Born of One’s Own Mind)

 争いが起こる原因は、双方それぞれに何かの条件があるからです。          

   (略)                                   

 自分に都合のよい理屈を振り回すよりは、相手が悪いかどうかは別として、「自分にも悪いところがあった」と顧みる。そして、「相手にも何か怒る理由があるに違いない」と想像をめぐらせ、こころを開いて相手と向き合う。すると、腹が立っても、自分は何に腹が立っているかを冷静に見つめ直せ、やみくもに怒りを爆発させずにすみます。自分の問題点を改めることで、相手との関係を改善していくことができ、争いも少なくなるでしょう。   

 憎しみも怒りも相手のせいではなく、自分のこころが生んだのだと自覚ずるだけで、人生は生きやすくなります。                              

       【 『人生は価値ある一瞬(ひととき)』 大谷光真 】         

 

 上記は後半部分ですが、前半部分には「憎しみを抱いたり、怒っている原因を突き詰めれば、相手にあるのではなく、自分の思いどおりにならないからにほかなりません」とも書かれています。つまり、「憎しみも怒りも自分の心が生んだもの」なのです。        

 「このことを自覚するだけで人生が生きやすくなる。( Life is easy for us to live just

only knowing this. )」。 いいですね!                        

 

 

いのちは預かりもの ( Life Is in Our Charge )

 

 日本における自殺者の数は、三万人を切ったとはいえ、依然として高い水準で推移しています。自ら死を選ぶ人は、人とのつながりを実感することができなかったり、孤立してしまっていたりするのかもしれません。                         

   (略)                                   

 仏教の考え方では、自分の「いのち」は、自分がつくったものでもなければ、自分の私的な所有物でもありません。たまたま先祖代々から授かった、恵まれた「いのち」であり、いわば預かりものです。自分の「いのち」は網の目のようにいろいろな「いのち」とつながっており、周りの「いのち」に支えられてこの世に存在しているのです。ですから、「自分のいのちなのだから、自分の勝手にしてよい」とは決して言えないのです。        

      【 『人生は価値ある一瞬(ひととき)』 大谷光真  】         

 

 「自分の命は自分で作ったものでも、自分の所有物でもありません」。前にも何度か書いていますが、命は仏さまから頂いたものであり、いわば仏さまからの預かりものであります。

 換言しますと、私たちは仏さまの命(の一部)を生きているのです。         

ここに、命を粗末にしてはならない理由があります。( In other words, we live part of

Amida Buddha’s life. This is why we should not make light of our lives. )

 ですから、自殺してはいけない理由も同様です。                 

 

 

末通らない ( Illogical ) 

 「末通らない」とは、『歎異抄』に出てくる浄土真宗の教えそのものを表す言葉で、「人間は、首尾一貫して筋の通ったことはできない」といった意味です。           

   (略)                                   

 せっかくよいことを積極的にやろうとしているのに、能力が及ばす、思うとおりにいかない。しょせん、人間には限界があるのだと痛感させられる場合に、この「末通らない」という言葉が出てくるのです。                             

   (略)                                   

 力及ばず、償えないという痛みをともなう経験を通して、自分が末通らないものだということに気づいたとき、仏さまが私を常に見守り、無条件に大きな慈悲の心で包んでいてくださるということが、私にとって「あるか」「ないか」ではなくて、「なくてはならない」ということが感じられます。そして、私とこの世界を包み込み、支え続けてくださる仏さまの大きな慈悲の心を感じられたところから、末通らない私が歩んでいける新しい道が拓けるのです。                                      

     【 『人生は価値ある一瞬(ひととき)』 大谷光真  】         

 

 「人間には限界がある」ことを「末通らない」という言葉で表現されています。また、上記文のこの箇所に引き続き「何でも努力すれば出来るというものではなく、人間の力ではどうしようもないことがあるのだという自覚にもつながります」とも書かれています。   

 「末通らない人間であるからこそ、仏さまは慈悲の心で導いて下さっています。(The

Buddha is leading us with benevolence because we are really illogical human beings.)」

 従って「末通らない私が歩んでいける新しい道が拓けるのです」。仏さまの末通ったお慈悲の心に、ただ感謝です。                             

 

 

今日の尊さを忘れない ( No Forgetting the Preciousness of Today )

 私どもの宗派では、「仏法には明日はない」とよく言います。人間の命は壊れやすく、次の瞬間どうなるかわからないから、明日に延ばさず、今日、話を聞きましょうという戒めです。        (略)                            

 自分のいのちは、遠い人類の祖先から受け継いできて与えられたものです。言い換えれば、自分でつくりだしたものではなく、恵まれたいのちであり、同様に、今日という一日も、今というひとときも、自分でつくりだしたものではなく、自分の外から与えられたもので、かつ、二度と来ないものです。                            

 そう考えれば、せっかく恵まれたものを無駄にせず、今の尊さを大事にしたいと思うようになるでしょう。                                 

      【 『人生は価値ある一瞬(ひととき)』 大谷光真 】          

 

 「自分の命も、今日という一日も、外から与えられたものであり、自分が作り出したものではない。かつ、二度と来ないものです」。非常に重い言葉です。また、命は縁があれば、風前の灯火のようにはかないものであり、あっという間に消えてしまいます。      

 だからこそ、今日の尊さ、突き詰めれば、今の尊さを忘れないようにしなさいと諭(さと)されるのです。( Therefore, we are preached not to forget the preciousness of “today,” in conclusion, that of “now.”

 

 

仏さまのまねごとをする ( Following Amida’s Example ) 

 仏教には、財のある人は財を施し、財のない人でも「無財の七施(しちせ)」と言って、財産やお金がなくてもできる施しをしなさいという教えがあります。          

 ①人に対する優しいまなざし[眼施(げんせ)]、②柔和な顔で接する[和顔悦色施(わげんえつじきせ)]、③他人に対して優しい言葉で接する[言辞施(ごんじせ)]、④自分を律して人に礼を尽くす[身施(しんせ)]、⑤愛情のこもったこころで相手に接する[心施(しんせ)]、⑥他人に座席を喜んで譲る[床座施(しょうざせ)]、⑦家や部屋を他人とあたたかく接する場所にする[房舎施(ぼうしゃせ)]、の七つが、無財の七施です。           

 仏さまになれないにしても、仏さまのまねをして、財のある人は財を施し、財が無くても「無財の七施」を心がけるようにする。「仏さまのまねごとをしているから、私は正しいことをやっているのだ」と自慢するのはよろしくありませんが、「せめて、仏さまのまねごとをさせていただきたい」という気持ちで日々の暮らしをしていくことは、素晴らしいことだと思います。                                   

    【 『人生は価値ある一瞬(ひととき)』 大谷光真  PHP  】       

 

 絵像に描かれた阿弥陀仏のお姿には、「無財の七施」を説明されている、優しいまなざし、柔和な顔、優しい言葉、礼を尽す、愛情のこもった心、喜んで譲る、あたたかく接する、等の言葉がすべて表現されているように感じられます。どこまでも優しい慈悲の仏さまです。 

 「せめて、仏さまのまねごとをさせていただく」。                  

 日々の暮らしが、豊かな気持ちで満たされることでしょう。( I believe we are filled with satisfied feelings in our daily lives. )

 

 

如来のひとり子 ( The Buddha’s Only Child ) 

 「一切衆生悉有(しつう)仏性(ぶっしょう)( All sentient beings entirely have

Buddha- nature.)」という言葉が『涅槃経』にあります。「すべての衆生は、生まれながらにして仏となる種(仏性)がある(『浄土真宗聖典』より)」ということです。                                  

 阿弥陀仏はすべての衆生を助けると、衆生が誕生するずっと以前に誓われていました。ですから、衆生の出生時に、阿弥陀仏から仏に生まれる命を与えられるのです。      

 浄土和讃の中の一首に「十方の如来衆生を 一子のごとく憐念す」(如来は十方の衆生を、ひとり子のようにいつくしみ、あわれんでおられる)と歌われています。つまり私たちは、個々人が如来のひとり子であるのです。このようなことから、浄土真宗の僧侶である大峯顯師は、自著の中で「私たちは阿弥陀仏の命(の一部)を生きているのである」と言っておられます。仏性を頂いたご恩と、命の大切さをしみじみ感じます。