お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

阿弥陀如来はどこにおられるの? ( Where Is Amida Buddha ? ) その(1)

 「阿弥陀如来は、どんな仏さま?」
 「阿弥陀さんは、無量の光、無量の命の仏さまという意味です。だから、誰もがいつでも、仏さまの救いに包まれているのです」
 「じゃあ、阿弥陀さんは、どこにいるの?」
 「西の方へ、ずっとずっと行ったところのお浄土にいらっしゃいます」
 「それでは、西に向ってお礼をするといいですね」
 名前阿弥陀如来)や方角どこに)や、存在の有無いる)は、覚っていない私たちのこちらの世界の認識にすぎない。真理とは、それを超えたあり方である。
 しかし、一方で、その認識に寄り添って説示されることがなければ、こちらの世界に生きている私たちにとって、仏は失われ、仏となる道も失われてしまう。
 だから、阿弥陀如来は名前と場所のある仏さまとして説かれている
   【 『ここがわからん 浄土真宗』  大法輪郭編集部 [編]   】

 

 『阿弥陀経』には、「これより西方に、十万憶の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という」と書かれています。また、『観無量寿経』には、「阿弥陀仏ここを去ること遠からず」とあります。
 私たち凡夫には、浄土はあまりにも遠すぎて認識することはできません。ところが、覚りの世界におられる阿弥陀如来や、諸仏方からすれば、浄土と娑婆はとても近い存在だと考えられます。そのほんの一例ですが、『観無量寿経』には、「阿弥陀仏は神通如意(思うがままに、何事もできる不思議な働き)にして、十方の国において変幻自在(自由に現れたり消えたり、形を変えたりできる)なり」と書かれていることからも明らかです。
 それに距離が近い例として、阿弥陀仏のお力による還相回向の働きが挙げられます。この世で生を終えて浄土に生まれ、覚りを開いた仏方は、直ちにこの世に還ってきて、衆生済度に尽力されるということからも、阿弥陀如来がすぐ傍におられることが分かります。
 「阿弥陀仏は神通如意にして、十方の国において変幻自在なり。( Amida Buddha,
exercising supernatural powers at will, freely manifests his transformed bodies in the
lands of the ten quarters. )」

五劫思惟の願 ( The Vow Considered for Five Kalpas )

 Q 阿弥陀仏法蔵菩薩)の本願のことをよく「五劫思惟(しゆい)の願」といわれますが、どういう意味を表しているのですか。
 A 先にもうしたように、法蔵菩薩は、仏のさとりの領域が、そのまま衆生を迎え取る浄土となるような最高の仏国を建立し、さらに誰でも歩める究極の易行であると同時に、最高の徳をもっている称名念仏を往生の行として選び定め、生きとし生けるすべてのものを救おうという誓願を起こされましたが、五劫もの間、考えをめぐらされたということです。
 Q 五劫とはどれほどの時間をいうのですか。
 A 五劫の劫とは、カルパ(kalpa)の音訳語で、想像を絶する長い時間を表す時間の単位です。それにも盤石劫(ばんじゃくこう)とか、芥子劫(けしこう)とか、塵点劫(じんてんこう)というような異説がありますが、一番良く知られているのは盤石劫です。『大智度論』(だいちどろん)によりますと、縦・横・高さが、それぞれ四十里もある巨大な岩がある。そこへ、百年に一度ずつ天人が舞い降りてきて、その薄くて軽い羽衣(はごろも)で、一度だけ岩に触れるために、その巨岩が磨滅(まめつ)してなくなってしまってもまだ一劫にはならないほど長い時間であるといわれています。五劫とは、それを五回繰り返すのですから、私どもの想像を絶する長い時間を表しています。
    【 『親鸞聖人の教え・問答集』 梯 實圓  大法輪閣  】

 上記に、「四十里もある巨大な岩」とありますが、一里は約4㎞ですから、その岩は、縦・横・高さがそれぞれ40㎞もある巨大な岩です。このこと、一つから考えましても、一劫という時間の長さがどれほどのものであるか、ましてや、五劫ともなれば人知では想像すらできない長い時間です。正に阿弥陀仏は、無始(始めのない、限りなく遠い過去)よりこのかた、「生きとし生けるすべてものを救おうと考えをめぐらされた」ことが分かります。
 「阿弥陀仏の「五劫思惟の願」の背景にあるご苦労の、ほんの一端を垣間見させていただいた気がしています。( I feel I have had the honor of getting a glimpse of Amida
Buddha’s part of troubles which is at the back of the Vow considered for five kalpas.)」

『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons ) (15)

遠く離れていようと、生きてさえいれば、互いに会える可能性を残しています。野辺の送りの悲しみは、その可能性がゼロになるからです。出会いがあればいつか別れが来るのですが、特に今生のわかれとなると、それが肉親であっても、友人であっても「あなたに出会ってよかった、ありがとう」と言えるような別れでありたい。

 そして、もしお浄土での再会を約束できれば、別れの涙は仏法にあえた喜びによってやさしく包まれるでしょう。(砺波市 浄土真宗本願寺派傳教寺住職 吉江忠了)

    【『ありがたい深い話』野辺の送りー富山編 富山新聞社 】

 

 臨終に、浄土での再会を約束できる人たちこそ、この世に生を受けて最高の人生だったと、わが身を振り返ることができるでしょう。「聞き難い仏法です。出あえて良かったと心から思わずにはいられません( It is extreamely hard to hear Buddhism. I can't

help thinking from the bottom of my heart that it was very good for me to hear Buddhism. )」

楽しむ ( Enjoy )

 浄土(真)宗では、浄土に往生して仏になった人は、再びこの世に帰ってきて、衆生を教化(きょうけ;衆生仏道へと教え導くこと)して、救済すると説かれています。
 その時の衆生を導き、救済活動をされる仏さま方の心境は、ただ「救済を楽しむこと」であると言われます
 アスリートたちが、試合などに出場する時、誰かに「頑張って下さい」と励まされた時、「はい、楽しんで、やってきます」と答えている場面を何度か見かけたことがあります。その言葉には、彼ら自身の「士気を高めよう」とか、「前向きにとらえよう」という気持ちが感じられます。確かに、私自身も何かしなければならないことや、こうしようと思っていることがあれば、楽しんで行おうと自覚することで、前向きになれると感じています。
「仏さまの楽しむという境地を見習っていきたいものです( I’d like to follow a Buddha’s
mental state of enjoyment. )」。
 参照https://miko415.hatenablog.com/archive/2016/03/03「遊ぶ」の意味

『ありがたい深い話』(Edifying Deep Sermons) (14)

 生活が豊かになり、物があふれている現代、科学技術の発展により便利さを確かに手に入れました。その代わりに大事なものをなくしてしまいました。「いのち」まで自分の都合のよいように「もの」として扱っています

 生きると言うことは、多くの動植物の「いのち」をいただいて「生かされ」ているのです。自分たちの「いのち」は仏様からのもらいものです。「仏法領のものをあだにするかや」蓮如上人は五百年も前にそのことを戒めていらっしゃいます。(南砺市 真宗大谷派光徳寺前住職 故・高坂制立)

 

 なぜ私たちの「いのち」は尊いのでしょう。前にも書きましたが、「いのち」は仏様からの頂きものだからです。ですが、現在、「いのち」を軽んじる世の風潮がだんだん強まっています。

 「仏法領のものをあだにするかや」。「今も、蓮如上人の一喝が響いてくるようです。( Saint Rennyo's bark seems to be resounding even now, somehow. )」

急げ!急げ! ( Let’s Hurry Up ! )

 実如上人が善従の逸話を紹介して、「ある人が善従の住まいを訪ねた時、まだ履物(はきもの)も脱がないうちから、善従が仏法について話しはじめた。側(そば)にいた人が、『履物さえまだ脱いでおられないのに、どうしてそのように急いで話し始めるのですか』というと、善従は、『息を吐いて吸う間もないうちに命が尽きてしまう無常の世です。もし履物を脱がないうちに、命が尽きたらどうするのですか』と答えたのであった。何をおいても、仏法のことはこのように急がなければならないのである」と仰せになりました。[『蓮如上人御一代記聞書』(一九八)より]

 この世は無常です。現に、世界がコロナ禍の渦中にあります。5月4日現在、世界の新型コロナウイルスによる死者は24万8千人近くに達しました。「正に無常の風が吹き荒れています。( Really it’s blowing an impermanent storm. )」
 「何をおいても、仏法のことは急がなければならない」とご教示されるゆえんです。

 

『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons) ( 13 )

 今、日本人の平均寿命は世界一の長さである。それでも死を迎えない人はなく、言わば死亡率の百パーセントは、ずっと変わらない。
 まったく人生というと、生きることだけと思ってしまうが、実は死もまた、だれにも代わってもらえないわが人生なのだ。「生死一如(しょうじいちにょ)」という仏教の言葉は、「生と死は一つのものだ」と教えてくれる。懐かしい方々の死を、ただ悲しむだけに終わるのでなく、この事実は、我が人生に何を語りかけているのかを見つめたい。(富山市 浄土真宗本願寺派妙順寺住職 竹中了哲)

 

 「生死一如」とは、「生と死は一つのもの」で切り離せないということですから、今日一日生きたということは、今日一日死んだことになります。いつ死ぬやら分からない身ですから、人生を心から満足して終えたいと思うなら、いつ死んでも満足、という身になることだと言えるでしょう。このことを教えているのが仏教です。「つまり、阿弥陀如来の本願を疑いなく聞くことだと教えられます。( That is to say Buddhism teaches we should hear the Primal Vow of Amida Buddha without doubts. )」

『ありがたい深い話』( Edifying Deep Sermons ) (12)

 人の死を通して、人生無常の理(ことわり)を受け取ることができても、それを縁として自分の問題にまで深めることのできる人は少ない。人間の死亡率は百%です。私だけが例外であるはずがありません。

 蓮如上人の『白骨の御文章』に、「我や先、人や先、今日とも知らず明日とも知らず」とあります。

 人の死は、わが身の問題として考えさせられる大切な法縁であります。上市町 浄土真宗本願寺派明光寺前住職 土井了宗)

 

 人は、百%死ぬものと、頭では分かっていても、心では、まだまだ大丈夫と、なかなか受け入れられないものです。そのような私たちにとって、法縁は人の死を我が問題として考えさせてくれる大切なものだと教示されています。重く受けとめたいものです。 

「真宗の教えを ブログに書く」(投稿)

富山新聞「地鳴り」投稿欄に私の投稿が掲載されました)
 私の知る年配の知人や友人は、いろいろなサークル活動や運動、趣味を楽しむなど積極的で、宗教に熱心な人たちもいます。
 私は、若い頃から浄土真宗に親しみ、今は、真宗の教えを中心にブログを書いています。数ヶ月前から、読み返すことにも力を入れ始めたことで、より元気づけられる自分に気付きました。
 このことは、病床にあった蓮如上人から、何か読んでほしいと言われた弟子が御文章を読んだ時、「自分の書いたものではあるが、本当にありがたい」と言われた話と重なります。文字に残すブログは、余生の楽しみであり、生きがいになっています。


 文字に残すつもりで書いたり、読み返したりして、ブログを楽しみたいと思います。(I’d like to enjoy the blog by writing it with the intention of leaving as characters and by reading it repeatedly )

命は仏様からの「頂き物」( Life Is ‘a Gift’ from the Buddha ) 

 真宗では、私たちの命は仏さまからの「頂き物」であると言われます( It is said in Shin Buddhism that each life of us is ‘a gift’ from Amida Buddha )」。聞法当初は、なぜ、そのように言われるのかわかりませんでした。命というものは、とにかく、一番大切なものだから、そのように言われるのだろうかと思ったりもしていました。          
 しかし、教えを聞いて、信心決定した人、つまり、信後の人は阿弥陀さまから、仏の命を与えられるのですから、命は仏さまからの頂き物であることは明らかです。でも、信前の人はどうでしょう。いまだ、仏さまの命は与えられていないと考えられるからです。   
 ところが、この疑問は『涅槃経』に説かれている「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉により解消しました。何故なら「生きとし生けるものには、すべて生まれながらにして、仏となる種(仏性)がある」(『浄土真宗聖典』)からです。

   つまるところ、私たちは生まれながらにして仏性(仏になる可能性)を有している(与えられている)のであり、阿弥陀仏の本願を聞くことによって与えられる信心(=仏性)ですので、私たちの命は、仏さまからの「頂き物」、と言えるからです。

浄土真宗では、往生成仏は、阿弥陀仏の本願力によるとするから、如来衆生に与えた信心仏性とする。(『浄土真宗聖典』)