お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

すべてお見通し ( Looking Each of Us Through )

 「疑いなく信じておまかせするもののことは、阿弥陀如来がよくご存じである阿弥陀如来がすべてご存じであると心得て、身をつつしまなければならない。目には見えなくてもつねに如来がはたらきかけてくださっていることを恐れ多いことだと心得なければならない」と、蓮如上人は仰せになりました。[『蓮如上人御一代記聞書』(八三)]

 

 阿弥陀如来は私たちの心中をすべてお見通しであります。如来の本願を疑いなく信じて、お任せしているかどうかは、すべてご存知なのです。

 「阿弥陀如来が常に働きかけて下さっていることを本当に有り難く思います。( I am very thankful to Amida Buddha to work on me always. )」

急げ! 急げ! ( Hurry Up! Hurry Up! )

 蓮如上人は、「今日という日はないものと思いなさい」と仰せになりました。上人は、どのようなことでも急いでおかたづけになり、長々と時間をかけることをおきらいになりました。そして、仏法を聞く身となった上は、明日のことも今日するように、急ぐことをおほめになったのです。 [『蓮如上人御一代記聞書』(一〇三)]

 

 「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」この歌は親鸞聖人が9歳で出家される時、高僧の慈鎮和尚から「今日はもう遅いから、明日得度の式を挙げましょう」と、言われた時に返答された歌だと言われます。この歌からは、世の無常を強く感じます。

 しかし、蓮如上人の「今日という日はないものと思いなさい( You must think that

you never have the day of today. )」という言葉からは、更なるインパクトを感じます。今日という日は、誰もが無常の風に誘われる日である可能性は十分にあり、無常の風は明日までさえ、待ってくれないのですから。上人の「急ぎなさい」と言われる気持ちが心に響いてきます。

どんな一日もよき一日 ( Any Day Is a Good Day )

   日日(にちにち)是れ好日 / 録碧巌(へきがんろく)

 「一五日已前(いぜん)は汝に問わず、一五日已後(いご)、一句を道(い)い、将(も)ち来(きた)れ(昨日までのことは問うまい。いま、お前たちはどう生きるのだ)」

 雲門文偃(うんもんぶんえん)は、僧たちに向かって問いかけます。恐らく僧たちは何も答えなかったのでしょう。その問いに、僧たちに代わって自分で答えたのが」「日日是れ好日(毎日を好日にしなさい)」という言葉です。

 好日とはいい日、吉日ですね、

 私たちの人生は、好日ばかりではありません。好日と悪い日があるのは当たり前であり、必ずしも同じ割合でやってくるものでもありません。なかには、ほとんどが悪い日だと感じている方もいらっしゃるでしょう。

 実際、毎日を好日に変えることはできません。しかし毎日を好日と考えることはできます。

 つまり、どんな毎日も否定しないということです。病気の時はうんうん苦しみ、楽しいときは、思いっきり笑う。それが日日是れ好日なのです。

  【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  成美文庫  】

 

 「毎日を好日に変えることはできなくても、毎日を好日と考えることはできます(Even

if we cannot change every day into a good day, we can think it a good day. )」とあります。なるほど見事な捉え方だなと思いました。具体的には「どんな毎日も否定しないこと」とありますが、楽しい日も、また、たとえ病気で苦しい日であっても、それを受け入れていくこと(否定しないこと)が日日是れ好日だと言われます。諦観( [仏] 明らかに真理を観察すること。物事の本質を見きわめること。)という境地になることかな、とふと思いました。

無生の生 ( The Birth of No-Birth ) ( 2 )

 お浄土を信じるといっても、有るとか無いとか決めようとしたら間違ってしまうのです。有るとか無いとか分別しないところにお浄土はあるのです。人間の分別のとどかない世界のことを浄土と呼びます。お浄土がどこにあり、「それはこういうところだ」と分別したら、 お浄土ではなくなってしまうのです。しかし、お浄土なんか無いと言ったら、これもやはり間違ってしまいます、浄土の有無は人間の頭で分別することはできません。お浄土は有無の二見を超えています。

 だから、お浄土に生まれると言っても、わたし達は「オギャー」といって人間界に生まれてきたのですけれども、そういうお母さんのお腹から出てくるような生まれ方は、お浄土に生まれる時はしません。そうではなくて、曇鸞大師が言われたように、「無生の生」という生、この世の生でないような生がお浄土の生です。なぜかと言うと、「オギャー」といって生まれた生はいつかまた終わります。死というものをすでに持っている生は、やはり死と相対的な生死の生であって、本当の生ではありません。お浄土の生は、われわれが考えているような「生」、生まれては死に、死んでは生まれる迷いの生ではない。もしこの世の生を生というなら、浄土の生はむしろ「無生」と言う方が正しいでしょう。「無生の生」とは、われわれが自分で生だと考えているような生のことではなくて、阿弥陀如来の清浄なる本願力によっていただく、あるがままの生、真実の生のことを言うのです。

     【 『浄土の哲学』 高僧和讃を読む 上  大峯 顯  】

 

  「浄土とは、どこにあり、どのような所なのか、ということは人間の分別を超えたものである ( It is beyond our discretion that where the Pure Land is, and what its place is

like.」と言っておられます。従って、そのような有無の二見を超えた浄土での生まれ方は、人間の考えているような、母親のお腹から生まれて来るような生まれ方ではないと言われても、すっと納得できます。また、最終部分の、「もしこの世の生を生というなら、浄土の生は『無生』と言う方が正しいでしょう。・・・・・・・・・・・・『無生の生』とは、われわれが自分で生だと感じているような生のことではなくて・・・・・真実の生のことを言うのです」の件からは、「『無生の生』の意味もはっきり捉えられます。( We can understand the meaning of the birth of no-birth. )」。

無生の生 (The Birth of No-Birth ) ( 1 )

 無生(むしょう)の生(しょう)とは、極楽浄土に生まれることをいうのである。浄土に生まれるのは、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けるというような意味ではなく、生死を超えたさとりの世界に生まれることである。だから、極楽浄土に生まれることを無生の生というのである。『御一代記聞書』三七  )

 

 「極楽浄土に生まれることを無生の生というのである ( The birth of no-birth is that we are born in the Pure Land. )」。生まれたり、死んだりと、生死をくり返すことの無い生、つまり、「浄土の生」なので、このように言われるのでしょう。

 ※「無生の生」について、大峯顯師が自著に詳しく書かれていますので、次回、紹介させてもらいます。

「悪人正機」とは

 「悪人正機」について [ マイペディア百科事典 ] にはこのように書かれています。

 「浄土真宗の開祖親鸞の根本思想。『歎異抄』に < 善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや > とある。善人(自力作善の人)は自己の能力で悟りを開こうとし、仏に頼ろうとする気持ちが薄いが、煩悩にとらわれた凡人(悪人)は仏の救済に頼るしかないとの気持がつよいため、阿弥陀仏に救われるとした。すべては阿弥陀仏の本願によるとの絶対の他力思想につながる」。

  ここで、「悪人」とは「煩悩にとらわれた凡夫」とい意味で捉えられています。

 

 また、『浄土真宗聖典』補注3(用語解説)P.1557 には(口伝鈔・19)に書かれている「正機たる悪凡夫(悪人)」について、次のように説明されています。

 「正機たる悪凡夫(悪人)」とは法(阿弥陀仏の救済)の正(まさ)しきめあてが、悪人(罪業深重の凡夫)であることをあらわす」。

 

 以上より、「悪人正機」とは、「罪悪深重、煩悩具足の私たち凡夫が、正に、阿弥陀仏の救済のお目当てである」ということです。

 

 当ブログ、前回の「悪人」の意味が詳しくなかったと思いましたので、今回、「悪人」について集中して書きました。

 ※ 悪人正機 ( We sentient beings who have great sins and blind passions are the

sure object of the salvation of Amida Buddha. )

善人とは? 悪人とは? (The Meaning of a Good Person and an Evil Person )

 「善人なをもて、往生をとぐ、いはんや悪人をや 」。これは親鸞の言葉(『歎異抄』第三条)として、大変に有名だ。「善人が阿弥陀さんの浄土に往生できるのなら、ましてや悪人は言うまでもない」という意味だ。

 これを読んだ「常識人」は、無条件に、「それはおかしい」と感じる。「常識人」の「常識」は、「善人が浄土に往生するのは当然で、悪人は地獄へ墜ちて当然」である。「常識人」は、自分には努力次第で浄土へ往ける力があり、いわゆる「悪」などと無縁の存在だと自惚(うぬぼ)れている。その「常識人」に対して、「お前は本当に善人か。本当に努力次第で何でもできると思っているのか」と親鸞は迫ってくる。実は、「常識人」は、阿弥陀さんなどに頼らなくても自分の力で生きていけると思い上がっているのだ。その発想そのものが「悪」である。阿弥陀さん不用論だからだ

     【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編]  】

 

 『歎異抄』第三条に書かれている「善人なをもて、往生をとぐ、いはんや悪人をや。

( Even a good person attains birth in the Pure Land, so it goes without saying that

an evil person will. )」の意味は「善人が阿弥陀さんの浄土に往生できるのなら、ましてや悪人はいうまでもなく(往生できる)」という意味です。ところが、私たちは一般的な常識として「善人が浄土に往生するのは当然で、悪人は地獄へ墜ちて当然」と解釈します。

親鸞聖人と常識人の「善人」、「悪人」の解釈が違うからですが、どうしてでしょう。上記の内容から、まとめてみます。親鸞聖人の言われる「善人」とは、「自分の力(自力)で助かると自惚れている人」で、「悪人」とは「阿弥陀仏の力(他力)に依らなければ助からない、と自認している人」だと言えるでしょう。

親鸞聖人はなぜ『教行信証』を書かれたのか?

 仏教のお経は、大量に存在する。そのため、それらをどう整理し、何が重要であるかを示す必要性が生じた。

 親鸞聖人のみならず、各宗派の祖師方は多様な数多くの仏典を引用し、仏教全体を総合的に理解しつつ、それぞれの教義の正当性を明らかにしていった。

 親鸞聖人の『教行信証』も、同様の性格を持つものとうかがえる。

 しかし、親鸞聖人にとって、教行信証』は、ただ教義の正当性を立証するだけの作業ではなかった。

 親鸞聖人は、最後まで『教行信証』に加筆され続けたのであり、阿弥陀如来の救いを、多様な仏典に依りながら確かめて頷(うなず)いていくという、信心を喜ぶ生活そのものであったのだろう。

     【 『ここがわからん 浄土真宗 』  大法輪閣編集部[編]  】

 

 過去に、各宗派の祖師方による経典の整理があったということを初めて知りました。親鸞聖人も例外ではなかったのですが、聖人にとっては「ただ教義の正当性を立証するだけの作業ではなかった」のです。

 聖人が、『教行信証』に加筆された文面の写真を何度か目にしたことがあります。上記の如く、「親鸞聖人の生涯は信心を喜ぶ生活そのものであった(Saint Shinran’s life was an everyday life itself for him to be pleased at shinjin.)」のだろうことが窺えます。

なぜ『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を唱えないのか?

 浄土真宗では「読経」を、功績を積むためのものではなく、信心をいただいた者が「仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)」すなわち仏さまの救いに感謝し、讃(たた)えるために行うものとする。

 しかし『般若心経』には、ご本願も念仏も、阿弥陀仏のことも説かれていない。仏徳讃嘆としては、宛名の異なる経典になってしまうので、『般若心経』だけでなく、阿弥陀仏の救いを説かない経典は、阿弥陀如来に向かって読誦されることがない。

     【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編] 】

 

 「浄土真宗での「読経」する意味がきちんと書かれています( In Shin Buddhism, the

meaning of a sutra recitation is written properly.)」「『般若心経』だけでなく………….

………………. 阿弥陀仏に向かって読誦されることがない」の部分からは、当然のことではないかと思われます。

「般若心経」 [百科事典マイペディア]

 大乗仏典の一つ。玄奘(げんじょう)訳では262字。最も短い経典であるが、諸法皆空の般若心経の要点を最もよく表現している。<色即是空(しきそくぜくう)・空即是色>の名句があり、古くから日本の在家(ざいけ)信者にも読誦(どくじゅ)された。

念仏は称えれば称えるほど救われるのか?

 法然の弟子には、その専修念仏の教えを、量が大切な問題だと受けとめる弟子が多くいる中で、親鸞は念仏は質が問題だと明らかにしたといえる。

 その質とは、法然の主張した念仏の真意は、信心を伴う念仏こそがまことの念仏だと理解したことである。

     【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編] 】

 

 念仏は「量より質が大事である。( Quality is more important than quantity. )」と言われます。信心を伴わない念仏を「専修念仏しても(専ら称えても)」救われることはありません。ですので、前回書きましたが、「称名念仏によって往生成仏が決定するのではない」ということです。救われるとは、あくまで阿弥陀仏の本願を聞いて(本願に対する)疑心がなくなることであり、念仏の多少と関係がないことなのです。ですので、「念仏は称えれば称えるほど救われる」ということはありません。