お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

目の前の道を進むかは自分で決める (You Must Determine by Yourself Whether You Take Up Your Own Way or Not)

詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々 歎異抄

 この言葉は、遠く離れた土地から命がけで親鸞を訪ねてきた人たちに対して、親鸞が述べた言葉の一節です。念仏以外の浄土へ往生する道を親鸞が知っているのではないかと疑う人たちに対し、親鸞は「それならば他のところで尋ねたらよい」といいました。そして、最後に「念仏を信じて歩んでいくのか、それとも念仏を捨てるのか、それは御自分で決めることです」と述べたのです。

 ある教えに出遭ったとき、それを信じるかは自分次第。だれかに決められるものではありません。「本当にこれでよかったのか」と不安になることもあるでしょう。しかし、地道にできることを行っていれば、いつか道はつながっていくのです。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社 】

 

 上記に書かれていますように、遠方から訪ねてきた人々は、「親鸞聖人は、念仏以外に浄土へ往生する道をしっているのでないか」と、聖人の説かれている教えを疑ったからでした。それならば、他の所で聞いたらよい、と言われるのは当然です。

 また、そのように言われた親鸞聖人の気持ちには、「目の前の道を進んでいくか、否かは、自分自身で決めるものだ」というお考えがあったからでした。

 教えに出遭ったとき、誰かに決められるものではなく、究極的には自分が決めることなのです。

 詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々。(Such, in the end, is how this foolish person entrusts himself to the Vow. Beyond this, whether you take up and accept the nembutsu or whether you abandon it is for each of you to determine. Thus were his words.)

「心を改める」は人生に一度だけ( “ People Mend the Heart “ Is Only Once in the Life )

 回心といふこと、ただひとたびあるべし歎異抄

 「今日もイライラしてしまった。明日こそは穏やかな心でいよう」などと誓いを立てることは誰にでもあるでしょう。しかし、あらゆることに回心する(心を改める)のは「悪を断ち切って、善をおさめれば黄土に往生できる」という自力の考えであり、他力の教えに反するものです。

 他力の教えにおいて、悪い心を改める「回心」はたった一度だけだと『歎異抄』には述べられています。自力から他力の教えに転換するときのことを指します。「生き方を変える」というのは、私たちの人生に何度もありません。しかし、それまで信じていた教えに疑問を感じ、新たな道を見つけたときこそ、人生を大きく転換させるときなのです。覚悟を決め、思い切って舵を切りましょう。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社 】

 

 他力の教えにおいて、「回心」は人生にたった一度だけあることであり、それは、自力から他力の教えに転換するときのことを指すのであると言われます。

 この他力の教えに転換するときとは、仏願を疑いなく聞くときです。(『浄土真宗聖典』註釈版 第二版 )の(補註7)にはこのように書かれています。「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」といい、名号のいわれを正しく聞き開いたことが信心であるといわれている」。

 回心の意味を正しく捉えることが大切です。

回心;[仏] 邪心を改めて仏の正道に帰依すること(広辞苑

 回心といふこと、ただひとたびあるべし ( Change of heart occurs only once. )

思い通りに助けられなということを知る ( We Know That We Cannot Save Others as We Wish )

 今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし歎異抄

 これは聖道門(自力)と浄土門(他力)の慈悲について親鸞が述べた言葉の一節です。聖道門の慈悲はすべてを憐れみ、慈しむことですが、思うがまますべてを救うことは困難です。一方、浄土門の慈悲は念仏して往生し、仏となってすべてをすくうこと。ですから、この世にいる間は、どれほど不憫に思っても、心のままに助けることはできません。私たちにできるのは念仏するだけなのです。

 「誰かを救いたい」という気持ちは尊いものですが、それがかなわないとき、私たちは自分自身の無力を思い知らされます。それでも、ときに非力であるということを知りながらもなお、他人のために動ける人でありたいものです。

  【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 浄土門では今生で、阿弥陀仏の本願を疑いなく聞いて救われますが、この世では仏になることはできません。死後、浄土で仏に生まれることが示されています。

 ですので、今生では仏さまのように人々を救うことができない旨、教えられています。ここに書かれていますように、非力でも、他人のために動ける(個人的には、仏教の事で何かと手助けできる)人でありたいと思います。

 今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知の如くたすけがたければ、この慈悲始終なし( However much love and pity we may feel in our present lives, it is hard to save others as we wish; hence, such compassion remains unfulfilled. )

存知のごとく;思い通りに。

始終なし;終始一貫しないこと。徹底しないこと。

人は何をするかわからない危うさを持っている ( Persons Have Danger not to Know What They Do )

 さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまひもすべし歎異抄

 私たちは自分の行いを自分自身で決定していると思いがちです。たとえば今現在、悪事に手を染めていないのは、自分が善人だからと思ったりしていませんか。

 しかし、「しかるべき縁があれば、人はどのような振る舞いもしてしまう」という親鸞の言葉の通り、私たちの誰もが縁によって悪に手を染めることもあります。これまで大きな罪を犯していないのも、ただ縁がなかっただけだからなのです。

 この世にいる限り、これからも私たちは縁の中で生きています。「明日は何をしでかすかわからない」という自分の危うさを知ることで、同じように生きる他人に対しても心を寄せることができるでしょう。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社 】

 

 私たちは、常識では自分の行いを自分自身で決定していると思っています。しかし、そうではない、といわれるのです。自身の行為は縁の有る、無しによって決定するからだと。正に私たちは縁の中で生きているのですね。

 さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまひもすべし( If  the karmic cause so prompts us, we will commit any kind of act.)   

「この道を歩む」と決める ( To Decide to walk This Way )

  念仏者は無礙の一道なり (歎異抄

 「無礙」とは、何にも妨げられるものがないことを意味します「念仏をする人は何ものにも妨げられることのない一筋の道を歩むものだ」というこの言葉の後には、「阿弥陀さまの本願を信じて念仏を称える人にはあらゆる神がひれ伏し、悪魔や他の教えを信じるものも、その歩みを妨げることはない」と力強く表現されています。

 私たちの歩む人生には障害がつきものです。自分ではどうすることもできない様々な障壁に、心が折れそうになることも多いでしょう。けれど、「私はこの道を進むのだ」と強く心に決めていれば、必ず乗り越えることができます。大きな壁で前が見えなくても、そこには必ず一筋の道があることを忘れないでください。

  【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 ちまたでは、「人生は苦なり」」とよく聞くことがあるように、「私たちの歩む人生には障害がつきものです」。でも「私はこの道を歩むのだ」と強く心に決めていると、必ず乗り越えることができるのだと教えられています。力強い言葉です。

 念仏者は無礙の一道なり ( The nembutsu is the single path of hindrances.)

この世に生きる人は皆つながり合っている (All People Who Live in This World Connect Each Other)

 一切の有情はみなもって世々生々(せぜしょうじょう)の父母・兄弟なり歎異抄

 「生きとし生けるものはすべて輪廻転生を繰り返しているので、あるときは父母であり、ある時は兄弟なのである」というこの言葉は、命あるものが皆つながり合いながら生きていることを教えてくれます。

 関係性の上下や、敵、味方などの表面的な区別は一時的なものにすぎません。たとえば今、自分が世話をしている子供も、かつては父母であったかもしれません。今は何かしらの理由があって敵対する関係にある人も、生命のどこかで深くつながり合っているかもしれないのです。

 今、この同じ世界に生きる存在とのつながりを感じることができれば、自然と心は穏やかになり、身近にある小さな縁も大切にできるでしょう。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 世々生々の世とは、生まれ変わり死に変わりを繰り返して経(へ)る、多くの世のことです。ですので、現在、私たちが家族として暮らしている場合、かつては子供が父母であったかもしれないし、あるいは、父母が子供であったかもしれない、といわれます。この世に生きるものは、皆つながり合っているのであると教えられます。特に家族間のつながりの深さを感じます。大切にしたい存在です。

 一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり ( For all sentient beings, without exception, have been our parents and brothers and sisters in the course of countless lives in many states of existence )

如来は衆生を一子のごとく憐念す( Buddhas Feel Pity for All Sentient Beings Like Only Child)

 超日月光この身には

 念仏三昧をしへしむ

 十方の如来衆生

 一子のごとく憐念す

        (浄土和讃

 超日月光阿弥陀仏の光明(仏の智慧の徳を示す)の徳を十二種に分けて称讃したもの。また、十二光仏ともいい、『大経』に述べられている。

 念仏三昧;心静かにひたすら念仏を修すること。一般には仏の相好や功徳を心に思い観る観仏のこととするが、親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を信じて、一心に名号を称する他力念仏のこととする。

 上記の和讃は、浄土真宗聖典(註釈版 第二版)に書かれているものです。

 

 十方の如来衆生を 一子のごとく憐念す(十方の如来方は衆生を一人子のように哀れみ、慈悲の心をかけてくださる)、この言葉に、「仏さまならではの慈悲の気持ち」を思い、この身が優しさに包まれているように感じます。

自力の心を捨てなければ、往生できない (One Cannot Birth in the Pure Land, If They Do not Throw Away the Mind of Self-power)

 日ごろのこころにては往生かなふべからず歎異抄

 『歎異抄』を執筆した唯円は、当時広まっていた「罪を犯すたびに懺悔し、回心しなければ浄土へ往生できない」という教えを批判し、回心というものは生涯にたった一度だけだと述べました。その「一度」とは、信心が定まったときのこと。他力の教えを知らなかった人が、日ごろ(これまで)の考えでは往生できないと知り、自力の心を捨てて、阿弥陀さまのはからいにお任せすることこそ回心だというのです。

 阿弥陀さまは善も悪もなく、信心の定まった人をすべて救ってくださいます。自分の煩悩を何とか消そうとあがくよりも、今、ここにあるご縁に感謝しながら心穏やかに過ごしてみてはいかがでしょうか。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 唯円は、回心邪心を改めて仏の正道に帰依すること)とは生涯にただ一度だけあることだと述べ、自力の心を捨てて、阿弥陀さまのはからいにお任せすることが回心だと教えています。

 自力を捨て、他力にお任せすることが求められています ( We are asked to throw away the self-power and leave Other Power )。

心がよいから、よい行いをするのではない(Because One’s Heart Is Good, They Do not Do Good Acts)

  わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし歎異抄

 この言葉は、親鸞唯円の対話によるものです。親鸞のいうことは必ず実行できるという唯円に対し、親鸞は「では私がいうなら、千人殺せますか」と問いかけます。そして、一人もころせそうにないと答える唯円に、親鸞は「自分の思い通りに行動できるなら、殺せるはずだ。それができないのは殺す縁がないからであって、心がよいからではない」といいました。

 同じように、私たちは、心が悪い人が悪い行いをしていると考えがちです。しかし、どんな人でも状況によっては大きな悪を犯してしまうことがあるのです。それほどに、私たちの心による善悪の判断というのは不確実なものなのです

   【 『 くり返し読みたい 親鸞  』 監修;釈 徹宗  リベラル社 】

 

 心が良いから良い行いをするのではなく、また、心が悪いから悪い行いをするのでもないと言われます。『歎異抄』には「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいもすべし」とも書かれていますが、しかるべき縁がくればどんな行いもしてしまうのです。

 縁があるか無いかで行いが決まるのであり、心の良し悪しで決まるのではないということです。「縁」の強さ、奥深さといったものを感じます。

この世との縁がなくなれば、命も終わる ( When We Are through with Relations to this World, Our Lives End, too )

 なごりおしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしておはるときに、かの土へはまいるべきなり歎異抄

この言葉は120ページに続く一節です。「この世は捨てがたく、浄土に心惹かれない」と述べた後、「どんなに名残惜しくても、この世との縁が尽きればどうすることもできず命も終わり、浄土に往くことになる」と続けます。ここで親鸞は、どれほどこの世にしがみついても、やがて往生する日がやってくることを説いています。大切なのは、この世との縁がある間、どのように生きるのかです。

 この世との縁がなくなれば、誰でも死を迎えます。私たちがそれをコントロールすることなどできません。ですから、日々を精一杯に過ごすこと。それにより今生かされていることへの感謝の気持ちも湧いてくるものです。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 「この世との縁がなくなれば、命も終わる」のですから「日々を精一杯に過ごすこと」が大切だと言われます。

 実際に実行するとなれば、なかなか大変ですが、心掛ければならないことだと思います。この世との縁がある間の生き方が提示されているのですから