お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

仏教の教える「因縁」について( About a Fatality That Buddhism Teaches )

 仏教では「因縁」について次のように教えています。

 [仏]  ものごとの生ずる原因。因は直接的原因、縁は間接的条件(因と縁は同義にも用いる)。また、因と縁から結果(果)が生ずること。縁起。転じて、定められた運命。広辞苑

 世間には、縁に関する色々な表現がありますが、少し上げてみます。「前世の縁」「縁あってめぐり会う」「金には縁がない」「縁が切れる」「親子の縁」「縁に感謝する」「縁を大事にする」「縁を頼る」「縁をつなぐ」等々。

次は慣用表現です。

1.縁と浮世は末を待て(良縁と好機会は、時節の来るのを待つべきもので、あせってもだめである)

2.   縁なき衆生は度し難し(いかに仏でも仏縁のないものは救済しにくいように、人の言を聞き入れないものは救いようがない)

3.縁に付ける(嫁入りさせる、縁づける)

4. 縁に連(つ)るれば唐(とう)の物(何かの因縁で思わぬものと関係が生じるの意)

5.   縁は異なもの味なもの(男女の縁は不思議なものであるの意、略して「縁は異なもの」とも)

 「袖振(ふ)り合うも多生の縁」とも言われるように、縁の満ち満ちた娑婆世界であると、改めて感じ入っています。

苦悩の多いこの世界も、捨てがたいもの ( This World Is Also Painful, but It Is Hard to Neglect It )

 久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ 歎異抄

 「はるか昔から今までずっと生死をくり返してきたこの苦しみに満ちた世界は捨てがたく、まだ一度も訪れたことのない浄土を恋しく思うことができない。これは、煩悩が盛んだからであろう」。この言葉は唯円親鸞の対話の一節です。

 親鸞は、「早く往生したいと思えず、少しでも病気になると死ぬのではないかと不安になるのも煩悩のせいである」とも述べています。当時80歳を超えてもなお、自分の心の内を素直にかたる親鸞の人柄が表れている言葉です。

 私たちは誰しも、煩悩など捨てることなどできず、病や死を恐れ、救いを信じることはできません。しかし、大切なことは、苦悩や葛藤をなくすことではなく、そうした自分の弱さをごまかさず、きちんと向き合うことです。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社 】 

 

 親鸞聖人は、自身の心の内を赤裸々に、包み隠すことなく語られた方でした。筆者の言われる通り、その人柄が表れています。また、私たちにとって大切なことは、煩悩具足の私たちは煩悩と戦うのではなく、「自分の弱さをごまかさず、きちんと向き合うこと」なのです。

 久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候こと、誠によくよく煩悩の興盛に候ふにこそ 歎異抄

 「 It is hard for us to abandon this old home of pain, where we have been transmigrating for innumerable kalpas down to the present, and we feel no longing for the Pure Land of peace, where we have yet to be born. Truly, how powerful our blind passions are! 」

困っている人ほど心をかける(We Should Do Care a Lot to a Person Having a Trouble)

病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり 教行信証

 この言葉は『涅槃経』という経典から引用されたものです。「7人の子どものうち、1人が病気になれば、親の心は平等であっても病気の子にはひときわ心をかけるものである。それは阿弥陀さまの心と同じことである」ということを表しています。阿弥陀さまの慈悲は平等であるからこそ、悩み苦しんでいる人を見つけ、救ってくださるのです

 私たちの社会ではときに、皆が平等でないことに対して不満を持つ人がいます。しかしそれは全く違います。皆が同じ目の高さになるように心がけることで、公平でよりよい世の中になるのではないでしょうか。周りで困っている人がいれば、率先して声をかけてみてください。

   【 『くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

阿弥陀さまの慈悲は平等であるからこそ、悩み苦しんでいる人を見つけ、救ってくださるのです」から、皆が平等でないことに対して不満を持つのではなく、皆が同じ目の高さになるように心がけることが大切であると教示されています。実行するよう努めたいと思います。

理屈では説明できないものがある ( There Is Something beyond Explanation by Theory)

      念仏には無義をもって義とす (歎異抄

 義とは「はからい」や「分別」を表す言葉。本願他力の念仏においては、自分の都合で判断したり、理屈で考えたりすることはしません。「念仏を称えれば、よいことがあるかもしれない」などという勝手な意味づけは、してはいけないのです。

 現代に生きる私たちは論理的な思考に慣れています。物事に対して、「どうしてこうなるのか」「これを行うと、どんな結果になるのか」と思いを巡らせることも多いでしょう。しかし、私たちの身の回りで起きることや、人との出会いなど、世の中にはどうしても理屈では説明できないこと、言葉にできないことがたくさんあります。それらに自分なりの意味づけをする必要はありません。がんじがらめの理屈から解放されることで、見えてくるものがきっとあるはずです。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗  リベラル社 】

 

 「歎異抄」には「念仏には無義をもって義とす」と書かれています。この言葉を、「浄土真宗聖典 註釈版(第二版)」には、[ 義なきを義とす] と表現して、「本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とする」、という意味である旨、書かれています。

上記の説明通り、念仏には自分の理屈で考えたり、勝手な意味づけをしてはならないのです。

自力を捨て、他力にお任せしましょう。

念仏には無義を持って義とす ( Concerning the nembutsu, no working is true working. )

師や親を非難するのは罪である ( It Is a Sin that Criticize One’s Mentor or Parents )

 師をそしるものをば、謗法(ほうぼう)のものと申すなり。おやをそしるものをば、五逆のものと申すなり (親鸞聖人御消息

 「謗法」は仏教の教えを非難すること、「五逆」は父や母を殺すなどの五つの重い罪で、Ⅰつでも犯せば無間地獄に落ちるとされています。仏教では、師や肉親を非難したり、悪口を言ったりすることはとても思い罪なのです。

 死や親のおかげで成長させてもらったにもかかわらず、大人になるにつれて師の教えを軽んじたり、年老いた親を疎ましく思ったりすることはないでしょうか。自らを省みてそのような態度に気づいたら、未熟な自分がいかに師や親から多くのものを与えられたかを思い出してみてください。原点に立ち返ることで、謙虚さや素直さを取り戻すことができるでしょう。

  【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 大恩ある師や両親を非難することは、「五逆罪」というとても重い罪であると教えられています。

 「五逆罪」[ 仏 ] 五種の罪悪。父・母・阿羅漢(あらかん;仏教の修行の最高階級、また、その階級に達した人)を殺すこと、僧団の和合をこわすこと、仏の身体を傷つけること。他にも説がある。これを犯せば無間地獄に墜ちるという(広辞苑

 大切に成長させてもらった師や両親には、感謝こそすべきで、非難などしてはならないのですね。

「行い」と「心」は離れずにあるもの (“ Action” and “ Heart” Are Not Separate with Each Other)

  行をはなれたる信は、なしとききて候ふ。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべし(末灯鈔

 親鸞は行(念仏)と信(信心)は表裏一体のものであると考えていました。信心のない念仏も、ニセモノであるということです。「念仏には無義をもって義とす」という言葉もある通り、他力の念仏は「念仏をすれば罪がなくなる」「浄土にわたるために念仏をする」というように、自分の都合で行うものではありません。そして、信心もまた自分で起こすものではなく、仏さまからいただくものなのです。

 私たちの日々の行いも、心が伴わなければ空虚なものとなります。普段の仕事にどれだけ心をこめられているでしょうか。相手への「ありがとう」という言葉ひとつにも心をこめれば、自分の気持ちも晴れやかになるでしょう。

  【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 上記に「念仏には無義をもって義とす」という言葉があります。とても分かり易く説明されていますが、この言葉の意味を浄土真宗聖典(註釈版 第二版)P.1485 にも、[義なきを義とす] という言葉で、「本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とする」という意である、と書かれています。

 親鸞聖人は、念仏と信心は表裏一体であると考えておられましたから、どちらも自力ではなく他力です。また、信心は仏さまからいただくものですから他力です。

 また、私たちの日々の行いと心について書かれていますが、「行い」と「心」は、お互いに離れずにあるものですから、どのような行いも心をこめてすれば、晴れやかな気持ちになるものだと思われます。実践したいものです。

おのずと起こるはたらきを受け入れる ( Take the Works That Happen Naturally )

 自然(じねん)といふは、「自」はおのずからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり 親鸞聖人御消息)

 「自然」とは、行者(念仏者)のはからいではなく、阿弥陀さまの願いによっておのずと起こるはたらきを意味します。親鸞は晩年、「自然法爾」(じねんほうに)という言葉を用いて「阿弥陀さまの願いのはたらきのまま」という表現をしていますが、これは「他力の思想」」を別のことばで述べているものといえます。

 私たちは誰でも物事がうまくいくように願います。しかし、自分の努力や才能とは関係なく、自然と導かれていく道というものがあるのです。ときには道からそれたり、歩みが進まないこともあるでしょう。そんなときでも「大きな願いのはたらきにおまかせする。おのずと導かれていく」との味わいを大切にしましょう。

  【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 自然法爾」;〔仏〕人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること。また、人為を捨てて仏に任せきること。親鸞の晩年の境地。(広辞苑

 自身のはからいを捨てて、阿弥陀さまの絶大なお働きに任せ切ることが大切だと教えられています。

「どう死ぬか」にこだわる必要はない ( There Is No Need to Be Particular about How to Die )

  まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず(末灯鈔)

 誰でも「できるだけ苦しまずに死にたい」「穏やかな死を迎えたい」などと一度は考えたことがあるのではないでしょうか。私たちはとかく先のことに心が奪われがちです。起こるかどうかわからないことを考えて不安になったり、恐れを感じたりすることもあるでしょう。

 親鸞は、88歳のときに書いた手紙の中で、「臨終の際のよし悪しについては申し上げない」と綴っています。なぜなら、信心が定まっている人は正定聚につき、往生できることがすでに定まっているからです。自分ではどうすることもできない臨終について恐れを抱くのではなく、阿弥陀さまに身をゆだね、与えられた命をまっとうすること。それにより、感謝しながら今を生きられるのではないでしょうか。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』 監修;釈 徹宗  リベラル社 】

 

 「『正定聚』とは必ず仏果を得ることが定まっているもの。浄土真宗では阿弥陀仏を信じて疑いなければ現世に正定聚に入るとする」(広辞苑)より

 現世において信心が定まっている人は、正定聚に入っているのですから、臨終に恐れを抱くことはありありません。

 阿弥陀さまに身をゆだね、与えられた命をまっとうすること」、この言葉に心がほっこりします。

よく考え、流されずに生きる( Think Securely and Live, Not Being Carried Away by Others’ Words)

  聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ (教行信証

 この言葉は『教行信証』の初めに出てくるもので、「聞思」は聞くこと、そしてそこから考えを深めることを意味し、「遅慮」は疑問を感じてとまどい、前に進めなくなってしまっているさまを表します。「真実の教えをよく聞いて考え、疑ってはいけない」というのが、この言葉のメッセージです。

 現代の社会では日々多くの情報があふれ、様々な考えを持つ人の言葉を聞くことも多いでしょう。しかし、それら一つに振り回されていると自分の進むべき道が見えなくなってしまいます。このような時代だからこそ、生きるためのよりどころとなる真の教えと出遇うことが必要です。その教えを自分自身の問題として深く考えていけば、力強く前に進んでいけるようになるでしょう。

   【 『くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 様々な考えを持つ人の言葉を聞くのではなく、仏教の教えを正しく聞くことが大切です。仏教で教える「聞く」とは次のようです。「『経』(大経・下)に「聞」(もん)といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と教えられています。つまり、阿弥陀仏の本願を、疑いなく聞く」ことです。

 聞思して遅慮することなかれ ( We hear the origin of the Primal Vow thoroughly and have not doubts nor hesitations.)

決して逃れられない煩悩を抱えながら生きる (We Live Having Worldly Desires Which We Never Escape from Them)

 煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲、ものうきことなくして常にわれを照らしたまうといえり正信偈

 もっと欲しいと常に求め続け、満足することのない「欲」、心にめらめらと湧き上がってくる「怒り」、他人への妬みやそねみを表す「愚痴」。これらは三毒といわれる代表的な煩悩です。

 9歳で仏門に入った親鸞比叡山にておよそ20年も厳しい修行を続けましたが、煩悩が消えることはなく、下山後も生涯にわたって自身の心と向き合い、苦しみ続けたのです。

 私たちは皆、「煩悩具足の凡夫であり、なくそうと思っても煩悩から離れることなどできません。しかし、煩悩によって視界を遮(さえぎ)られた私たちのことを、阿弥陀さまは智慧の光で絶え間なく照らし続けてくださるのです。

   【 『 くり返し読みたい 親鸞 』  監修;釈 徹宗  リベラル社  】

 

 私たちを苦しめ、悩ますのは煩悩です。「煩悩具足」と言われるように、生まれながらに備わっているものですから、なくそうと思っても、なくすことはできません。

 しかし、書かれていますように、「阿弥陀さまは智慧の光で絶え間なく照らし続けてくださっている」のですから、ありがたいことです。欲や、怒り、愚痴といわれる三毒の煩悩も阿弥陀さまの智慧の光で和らぐことでしょう。

 煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲、ものうきことなくして常にわれを照らしたまうといえり (Worldly desires obstruct my eyes and I cannot see the light;

Nevertheless, great compassion is untiring and illumines me always.)