よくぞ人間に生まれてきた!(It Was Good and Was Born as a Human Being )
- 苦悩の荒波が静まる、たった一つの方法
自分の生命のエネルギーの源泉について、たまには、考えてみないか!
親鸞は、その源泉を「光明の広海」といっている。ときには、「大悲の願船」ともいっている。それが、阿弥陀仏でもある。
わたしたちの生命のエネルギーの源泉は、見えないし、名前もないのでいろいろ名づけるが、「無量寿」という言葉が、いちばん理解しやすいかもしれない。
「無量寿」、それは、永遠という意味だ。永遠の生命だ。
だれもが、この「無量寿」の力によって、はじめて、地球に生まれている。
至徳の風静かに衆過の波転ず (教行信証)
よくぞ人間に生まれたものぞ! ああ、ありがたいと念じていると、苦しみ悩む心が、パッと明るくなる。これが親鸞の教えの要点だ。荒波のような苦悩が、感謝の心の一つで、静かな春の海の小波のように、静まる。
【 (超訳)『 こころに響く 親鸞の言葉 』 境野勝悟 三笠書房 】
「無量寿」とは;[仏](「無限の命を持つもの」の意)阿弥陀仏の漢訳名の一つで無量寿仏のこと。(広辞苑)より
阿弥陀仏の教えを疑いなく聞いて救われた人は、必ず浄土で仏に生まれかわり、無量寿という永遠の命を頂くのです。非常に生まれ難い人間界ですが、だからこそ、「よくぞ人間に生まれてきた!」と、阿弥陀さまは喜ばれるでしょう。
楽しく生きるのが、仏さまへの恩返し ( We Live Happily Come to Repay the Buddha Kindness )
● 私たちは生まれた瞬間からお世話になりっぱなし
一瞬でも、自分だけの力では、生きてこられなかった。けさ食べた、バターを塗ったパン、フライパンで焼いた卵のおかげ...... 。きのうの晩にいただいた、おさしみと、ほうれん草と、トンカツのおかげで生きている。
そして、なによりも、知らぬうちに、いつも働いてくれる呼吸のおかげだった。
空気の力も、あった。水の力もあった。太陽の光にも、すっかりお世話になった。
恩徳は身を粉にしても報ずべし (正像(しょうじょう)末和讃)
大自然から受けた恩恵のありがたさがわかって恩返しをしたいと思ったら、海岸ぞいの道を黙って清掃している人のように、だれからも認められなくても、みんなが喜ぶことを、うれしく楽しく実行できたら、この上ない「恩返し」となる。
【(超訳)『 こころに響く 親鸞の言葉 』 境野勝悟 三笠書房 】
『浄土真宗聖典』の「正像末和讃」(五九)には、次のような和讃があります。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
仏さまから頂いた大切な命です。題名のように、「楽しく生きるのが仏さまへの恩返しになるのです」また、人生は楽しく生活できることも恩返しになるのですね。
ゆっくり生きたいなら、そうしなさい ( If You Want to Live Slowly, Do It So )
- いつかがんばれるときも来る
がんばれ! がんばれ!
国中が、この言葉にあふれている。
がんばれない人がいる。がんばりすぎて疲れてしまったのだ。
がんばれなくなると、すぐ、ダメ人間にする。そんなとき、気が向いたら、がっしょうして、端正な仏像に一心に念仏すると、「無理はつづかないよ」「大丈夫だ」「ゆっくり、安めよ」という言葉が、浮かんでくる。
この言葉が、アミダからいただいた言葉だ。思いやりの言葉。慈悲の言葉!
これ皆ひがごとにて候(そうろう) (末燈鈔)
がんばれない性格の人にがんばれというのは、「ひがごと」、つまり、間違いである。のんびり生きたい人にはゆっくり生きさせてあげたい。とくに、子供のころはのんびり屋さんでも、ふと、好きなことが見つかると、猛烈に、がんばりだすのだ。
【 (超訳)『 こころに響く 親鸞の言葉 』 境野勝悟 三笠書房 】
「端正な仏像に一心に念仏すると、阿弥陀さまからいただいた、慈悲の言葉が浮かんでくる」と言われます。また、がんばれない人にがんばれというのは「ひがごと」つまり間違いであるとも。
ゆっくり生きたい人には、がんばれ!とせかせるのではなく、ゆっくりさせてあげるのが良いのですね。私自身も、このごろは、ゆっくりと生きるスローライフに生きがいを感じています。
人が喜び、自分も喜ぶのがいい ( It Is Good that Peoples Are Glad and Also Oneself Is)
- 親鸞が一生貫いた「自利他利」の生き方
自分を犠牲にして、他人のために尽くして生きる。これが「他利」の人間学。
戦時中の話ではあるが、自分の命まで、国家のためにささげた。
戦後になった。こんどは、こんどは、自分の利益のために働く。「自利」の謳歌!たしかに「他利」の生活だけだと、だんだん心が病んで、生きるのがつまらなくなる。
逆に「自利の生活だけでも、目的や夢が思うように達成されず、悲鳴をあげだす。
自利他利の行成就(ぎょうじょうじゅ)す (教行信証)
親鸞は、金山の穴の中で生活している労働者や、山奥で働いている木こりや、炭焼きをしている里人たちの苦しみをなごませるため、説法して歩いた。穏やかな親鸞の声を聞いて、山の民も、里の民も喜んだ。その姿を見て、親鸞も喜び、心が晴れた。そのとき思った。「ああ、わたしは人も喜び(他利)、自分も喜ぶ(自利)人生を究めていこう…… 」と。「自利他利」の行動! 親鸞は、一生これを貫く。
【 (超訳)『 心に響く 親鸞の言葉 』 境野勝悟 三笠書房 】
文中、終わりの方の「ああ、わたしは人も喜び(他利)……… から「自利他利」の行動! 親鸞は、一生これを貫く」までの言葉には、とても感動します。親鸞聖人ならではの気持ちが伝わってきます。自身も、少しでも見習いたいものです。
人生を楽しまないのは、恥ずべきこと (It Is Shamefulness that We don’t Enjoy Our Lives)
- 自分を大切にする、とはこういうこと
個人を大切にする。自分の考えを、大切にする。
個人主義は、一人ひとりの人間の価値や権利を尊く思ってくれる。すばらしい!
自分の夢を、自分で描く。自分の目標を、はっきり持って実行する。
人生にとって、いちばん大事なことは、その自分の夢や希望を、やり抜く力だ。
大いに、よろしい主義である。が、あまり、自分、自分と、自分の世界ばかりにとじこもってしまうと、まわりに、たくさんの人がいるのが、見えなくなる。
自分一人のことしか、見えない、孤独の闇に、いつの間にか、もぐり込む。
快(たの)しまざることを、恥ずべし (教行信証)
自分を大切にするとは、自分の考えを大切にすることではない。自分が幸福になることだ。孤立しないで、みんなとともに極(ご)く楽しく生きることだ。親鸞は、たった一度の人生を楽しまないのは、もっとも恥ずべきことだ……..と。
【 (超訳)『こころに響く 親鸞の言葉』 境野勝悟 三笠書房 】
『教行信証』には、「人生を楽しまないのは、恥ずべきこと」だと書かれているのですね。
ところで、お釈迦さまは、『涅槃経』に、「人間界に生まれる者は爪の上の土のごとし」と説かれているといわれます。人間のこの世に生まれ出る確率の少なさに驚きます。
だからこそ、生まれ難い人間界に生まれてこその人生なのですから、親鸞聖人が言われるように「たった一度の人生を楽しまないのは恥ずべきことだ」と教えられます。
確信があるなら突き進め ( If You Have Every Confidence, Push Forward. )
- 親鸞の教えはなぜ画期的だったのか?
ただ後世のことは、善き人にも悪しき人にも、同じように、生死出(いず)べきみちをば、ただ、一筋に仰せられ候。
親鸞が妻の恵信にいつも語っていたことはこういうことですと、娘の覚信に宛てた手紙の一節だ。
「死んだあとは、善人であっても悪人であってもまったく同じように生死を離れることのできる救いの道だけを、ただひたすらお説きになっていらっしゃった」…….と。
善き人にも悪しき人にも (恵信尼の手紙文)
「善人であっても、悪人であっても」これこそ、師であった法然上人の教えた念仏の道であった。それまでの仏教の世界では、「善因善果、悪因悪果」で、「善いことをした人は救われるが、悪いことをした人は救われない」が、鉄則であった。
【(超訳)『こころに響く 親鸞の言葉』 境野 勝悟 三笠書房 】
親鸞聖人の師である法然上人が活躍されていた、それ以前の仏教の世界では、「善いことをした人は救われるが、悪いことをした人は救われない」が、鉄則だったのでした。
親鸞聖人は、法然上人の弟子となり、師の教えを聞かれたのでした。そして、善人であれ、悪人であれ、同じように救われる道をただひたすら説かれていたことが、親鸞聖人の妻の恵信尼の手紙文にあるといわれます。救われる道を確信を持ってひたすら聞くことが大切です。
念仏は、あなたを即、幸福にする ( Nembutsu Make You Happiness at Once )
- 感謝は、全身のパワーをかきたてる
アミダ仏とは、宇宙の永遠のいのち、宇宙の永遠の光である、
後世になって、阿弥陀仏は、姿を持つ。が、本来、姿や形はない。
目には見えない、尊い人のいのちの大元の、宇宙の生命を、アミダ仏と言うのだ。
その宇宙の生命の「アミダ仏」を、感謝の心をこめて唱えると、宇宙の生命は、「ああ、わかった」といって、その人にいっぱい慈悲の心をそそいでくれる。
「南無」は、現代語では、「ありがとう!」。感謝は、全身のパワーをかきたてる。
南無阿弥陀仏をとなふれば、守り給う (現世利益和讃)
親鸞は、いう。「宇宙の永遠の生命よ、生まれてから今日まで、わたしの生活の活動の力を与えてくれて、ほんとうにありがとう!」という気持ちをこめて、「ナムアミダブツ」と唱えると、阿弥陀仏はあなたのところにすぐ飛んできて、あなたの人生の幸福を守ってくれる。あなたの心に情熱の炎が、ともる、と。
【(超訳)『こころに響く 親鸞の言葉】』 境野 勝悟 三笠書房 】
私たちの目には、阿弥陀仏の姿は見えません、しかし、念仏を心を込めて唱えることにより、阿弥陀仏は慈悲の心をそそいで下さるのだといわれます。
「南無阿弥陀仏」と、念仏を唱えることは、「浄土に生まれさせて頂ける身にさせて頂き、ありがとうございます」というお礼の念仏なのですから、本当に有り難いことです。
カレンダーの言葉 ( The Words of Calendar )
生活の中で 念仏するのでなく
念仏の上に 生活がいとなまれる ( 和田 稠(しげし))
この言葉は、我が家の部屋に掛けてあるカレンダーの言葉です。生活の中で念仏するのでなく、常に念仏を中心とした生活をしなさいということです。念仏の尊さを感じ、生きがいを感じます。
この言葉の英訳です ( We do not say the Nembutsu as a mere routine in our lives, but rather, we live our lives centered on the Nembutsu. )
生き仏が、すぐそこにいる ( Living Buddha Is Close There )
- これが親鸞の「信心」の世界
仏さまに会いたい!
高野山に行ったら、会えるだろうか。比叡山に行ったら、会えるだろうか。
長野の善光寺に行ったら会えるだろうか。中国の五台山に行ったら、会えるか?
京都へ行っても、奈良へ行っても、生きている仏さまは、なかなか会えない!
ふと、仏像めぐりの旅の終わりに、まわり道をして、故郷へ立ち寄った。
おばあちゃんが、仏壇の前で、静かに手を合わせ、念仏をしている。
いたっ!ここに生きている仏さまが、いらっしゃった!
仏に成りたまいて御名(みな)を申す (唯信鈔文意)
ナムアミダブツ(御名)と念仏しているとき、人は、みな仏になっている。念仏をしているときは、自分が仏さまなのである。これが、親鸞の信心の世界である。一心に念仏をしているお婆ちゃんの心の中には、苦悩がない。そこに、仏がいる。
【 (超訳)『こころに響く 親鸞の言葉』 境野 勝悟 三笠書房 】
「南無阿弥陀仏」と、念仏をしているとき、人は皆仏さまになっているのであると、言われ、これが、「親鸞聖人の信心の世界である」旨、書かれています。そして、念仏を申す人の心境は、苦悩がないことです。また、生き仏がすぐそこにおられるのは心強いことです。
あなたは常に、満たされている ( You Are Always Satisfied )
- こんなふうに考えてみないか
暑い夏の日ざかり、のどがカラカラになって、水を飲む。ゴックン……。
そのとき、あっ、こんなにうまい水を、みんなも、飲んでいるのだ、と思ったことは、ない。うまい水を飲んで、「あっ、うまい!」と喜んでいるのは自分だけだった。
腹がペコペコになったとき、牛の肉を焼き、たれをつけて、いただく。
食べているのは、この世で自分だけのように思って、大満足。
海へ行って、うまい空気を胸いっぱいに吸う。あっ、自分のために、空気がある。
静かに考えると、日々の暮らしを支えてくれる大生命は、みな自分のため!
空気もふくめ、水もふくめて、宇宙の生命は、わたしを生み、育てるため、ふんだんに尊い力を与えている。そのすごい力、でっかい宇宙の生命力は、みんな「あなた一人」のために働いている……。と、親鸞は、説く。
【(超訳)『こころに響く 親鸞の言葉』 境野勝悟(さかいの かつのり)三笠書房 】
歎異抄、後序には「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と書かれています。
あまりにも尊く、慈悲に満ちた阿弥陀仏の偉大な力に、このように言わずには居られない、聖人の感謝の気持ちの言葉だと受け止めています。もちろん、阿弥陀仏は私たち一人、一人のために、働いておられます。その、お働きを思うと、常に満たされているんだなと、心が安らぎます。