お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

若いうちに聞け(Hear Buddhism When You Are Young)

 熱心な仏教信者と言われるお方が、教えられた。「仏教は若いうちにしっかり聴きなさい、年を取れば、お寺に歩いて行くのも大儀になるし、聞いていてもすぐに眠くなってしまう。だから、若いうちに聞かないと取り返しがつかなくなるのだよ」と。

  【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』  高松信英  法蔵館  】

 

 この世は無常です。いつ無常の風に誘われるやら、わかりません。幼い子供たちも、同様の運命です。ですから、若いうちにこそ、しっかりと聞くことが求められているのです。あくまでも(十分に、どこまでも)取り返しがつく内に

最高の出来事 ( The Best Event )

 蓮如さまが御堂を建築されたとき、法敬坊が「思いもかけない素晴らしい御堂ができました。眺めも素晴らしいですね」と申し上げると、蓮如さまは、「私は、それよりももっと不思議な、素晴らしいものをしっているよ。それは、駄目人間が目覚めた人になることだ」と言われた。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】

 

 蓮如上人は、駄目人間が目覚めた人になる、つまり、阿弥陀仏に救われた身になることで、これこそ不思議で、素晴らしい出来事だと言われたのでした。法敬坊もさぞかし感動したことでしょう。今生で、最高の出来事なのですから

あきらめるな( Never Give Up )

 堅いものの代表は石である。柔らかいものと言えば、水である。その柔らかな水が、長い間には、堅い石に穴を開ける。「心を集中して事に当たれば、釈尊のように目覚めることも決して夢ではない」という先人の言葉もある。何もわからない駄目人間でも、一生懸命に教えを尋ねれば、目覚めた心とめぐりあい、明るい人生が開かれる。仏教はただ聞こえるまで聴く(聴聞)しかないのだ。

  【 現代語訳 【 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】

 

 仏教の教えは、何回も何回も、集中して聞くことが大切です。「仏教はただ聞こえるまで聴く(聴聞)しかないのだ」と言われます。結果、阿弥陀如来の明るい眼(まなこ)とめぐりあい、救われるのです。あきらめないことが大切です

親鸞さまのように( Like Saint Shinran )

 蓮如さまに、ある人が親鸞さま在世の頃のことについて、「これはどういうことでしょうか」と質問をすると、蓮如さまは、「私にもよくわからない。だが、わからないことが出てくると、私は親鸞さまが歩まれたように歩むだけなのだ」と言われた。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】

 

 ある人が蓮如さまに質問をした時、「私にもよく分からない。だが、・・・・・・私は親鸞さまが歩まれたように歩むだけなのだ」と返答されました。

 蓮如上人は「親鸞聖人に対して全幅の信頼を置かれていたからこそ、だと思われます」 聞く者も、心強いですね。

明るい人が増える、それで満足 (Cheerful Persons Are Increasing, That Satisfy Us)

 蓮如さまは、述懐された。「私はなにごとも思うように成し遂げることができた。省みる者も少なかった親鸞さまの浄土真宗の教えを、全国に広めることもできたし、本堂御影堂も山科の地に建立できたし、本願寺の住職も実如にゆずり、大阪にお堂をたて、隠居することもできた。だから、老子が『功成り、名、遂げて、身、退くは、天の道なり』と言ったのは、私自身のことのような気がする」と。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館 』 】

 

 蓮如上人ご自身が、仏教に身を投じてこられたこと、そのものの、しみじみとした述懐が、老子の言葉通り、ありのままに伝わってきて、すっきりします。

 蓮如上人の、並々ならぬ努力が功を奏したとも言えるでしょう。

一番不思議なこと( The Most Mysterious Thing )

 法敬坊が蓮如さまに申し上げた。「いただいた南無阿弥陀仏の名号が火事で焼けてしまいましたが、不思議なことに、焼けた後の灰が六体の仏になりました。これは一体どういうことでしょうか」と。そのとき蓮如さまは「それは不思議なことでも何でもない。仏が仏になるのは当たり前だ。それよりも、絶対に救われるはずのない駄目人間が、阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあって、目覚めた人になることこそ不思議なことではないか」と教えられた。

    【 『 現代語訳 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館 】 

 

 阿弥陀如来の六字の名号が火事にあって焼けてしまったとき、六体の仏になりました。すると、法敬坊が、「まことに不思議なことで、一体どういうことでしょうか」と申しあげました。そのとき、蓮如上人は、仏が仏になるのは当たり前だと言われたのです。

 そして、「阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあって、救われた人こそ不思議なことではないか」と教えられたのでした。

 広義に解釈すると、真理に暗く、煩悩に束縛されて、迷いの世界を輪廻する私たち「凡夫が仏になる」ことが一番不思議なことだと思われます。

お前の頭は下がっているか ( Do You Bow Down Your Head ? )

 如来さまの前に、長い間教えを聞いてきたベテランの信者が大勢集まったとき、蓮如さまは「このなかに、本当に阿弥陀如来の明るい眼に頭が下がった者が何人いるだろうか。一人か二人有るか無いかであろう」と言われた。「その時その場にいた者はみんな肝を潰しましたよ」と、そのお言葉を直接聞いた方が後で語るのだった。

  【 『 現代語訳 蓮如上人御一代記聞書 』  高松信英  法蔵館  】

 

 蓮如上人の、大勢のベテラン信者に対する厳しい言葉、「本当に阿弥陀如来の明るい眼に頭が下がった者が何人いるだろうか」つまり、阿弥陀如来の明るい眼(まなこ)とめぐりあった者、即ち救われた者 が何人いるだろうかと、問われたのでした。

 蓮如上人の言葉に、信者たちはびっくり仰天しましたが、それほど上人は多くの信者に早く救われてほしいと念じておられたに違いないと思われます。

まず教えを説く者が聞け(First, a Person Who Preach the Teachings should Hear)

 人を教え導こうとする者は、まず自分自身が教えに親しみ、阿弥陀如来の明るい眼とめぐりあうことが大事である。その上で、教えを説くならば、聞く人も無理なく自然に阿弥陀如来の心とご縁が結ぶことができるに違いない。

 【『 現代語訳 蓮如上人御一代記聞書 高松信英(たかまつしんえい)法蔵館』】 

 

 上記に、「阿弥陀如来の明るい眼(まなこ)」という言葉があります。著者は自身の『御文さま―真宗の家庭学習―』という著書の中で「阿弥陀如来の明るい眼」の意味について、詳しく書かれています。この『蓮如上人御一代記聞書』の中で、その「明るい眼」の意味が頻繁に出てきますので、その意味を明らかにしておきたく、数例、書き残しておくことにしました。

 阿弥陀如来の明るい眼(まなこ)」の意味

1.「観無量寿経」には、阿弥陀如来智慧の眼は、どんな人の「心の世界」をも明る    く見返し、「南無阿弥陀仏」と頭が下がった人をすべて「明るい世界」に導かれると     

教えられている。 

2.「阿弥陀如来の明るい眼」は、「やっと気がついてくれたか」と喜ばれて、「八万    四千人の人がいれば、「八万四千通り」の教えを説かれて、その人を感化されるに違いない。

3.阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあい、(有り難いご縁)に恵まれて、「他力信心という素晴らしいおくり物をいただくことができる」。

  阿弥陀如来の明るい眼とめぐりあうことが大事だと教えられています。

命の輝きを感じた 五月

 ( 特別編 )

今年の五月は私には、例年にない温和な気候を感じて、春らしさを満喫できました。

 ひとりでに「楽しや五月草木はもえ、小川の岸にスミレにおう……. 」と、モーツアルト作曲の歌詞、「五月の歌」が、口をついて出たことで、気持ちが晴れやかに。この、ひとりでに口をついて出たというのも、「五月の歌」は小学生のころ、音楽の時間によく歌っていたからでしょう。

 それに、五月から早朝ウォーキングに出かけたことで、ヒバリや、キジ、キジバト、スズメ、カラス、そして多くの名も知らない小鳥たちの楽しそうなさえずりを聞き、元気づけられたりもしました。

 空が晴れて冷えた朝には、雑草が露にぬれて陽の光にキラキラ輝き、心が洗われるようにきれいでした。

 このような様々な背景から気づかされたこと、それは、「生きとし生けるもの」の、命の輝きを感じ取ることができたことです。生きる喜びが湧いてきます。

一日でも早く幸福になる (People Ought to Become Happy as Soon as Possible )

  • 外を見るな、自分の内側を見よ

  美術的にすぐれた仏像を拝むことは、心を清らかにする、尊くすばらしい修行だ。

 死者の霊を弔うことも、感謝する心を育んでくれて、これも尊くすばらしい。

  しかし、親鸞の教えのギリギリのところを学びたいなら、この思考のパターンから   ぬけて「仏」と「極楽」の真理を見つめ直さないといけない。

 死後の極楽より、もっと大切なものは、生きているいまの現実の極楽ではないか?

 死後の仏よりも、もっともっと大事なものは、いま、自分が仏になることだ!

 

   念仏していそぎ仏になり (真宗聖典

 見逃してはいけない親鸞の貴重な言葉である。親鸞は、念仏して、一日も早く自分が仏になれ! と叫んでいる。不安や焦りや怒りや憂鬱な心を、一心に念仏をして治め、安らかな楽しい心で、自分のため、人のために、「極く楽」に生きる仏になれ!

 外を見るな! 自分自身に立ち返れ! 自分の内にこそ、仏は宿る。

   【 (超訳)『 心に響く 親鸞の言葉 』  境野勝悟  三笠書房  】

 

 確かに、ここに書かれているように、「死後の極楽より、もっと大切なものは、生きているいまの現実の極楽です」。死後、極楽浄土に生まれて、仏の身に生まれ変われるように今生に置いて救われていることは、言うまでもありません。

 とかく、私たちは、一寸先は闇で、どうなるか分からない無常の世界に生きています。「念仏していそぎ仏になれるように」常に心がけましょう。