2017-01-01から1年間の記事一覧
親鸞聖人が言われるように、私の心の中を覗いてみれば、無明煩悩で満ち満ちています。欲や怒り、腹立ち、そねみ、ねたみ等の坩堝(るつぼ)と化しています。でも、そんな中にも、気がつけば、「南無阿弥陀仏」の言葉が満ち満ちているのです。そして口をつい…
私たちが、周りの世界を見回す時、自分の目より下にあるものは低く見え、上にあるものは高く見えます。当然ながら、私たちの目は、私たち自身の頭に付いています。ですから、私たちが周りの世界を見ると、自分が世界の中心にいるように見えます。自分を中心…
源空聖人(法然上人)は、還相回向の人として知られています。親鸞聖人の『高僧和讃 源空讃』(『浄土真宗聖典』)(pp.595〜598)より次の三首を挙げてみました。 (1) 智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択(せんじゃく)本願…
今まで私は、「生あるものは必ず死ぬ」と学び、そのように講義や法話もしてきました。しかし、実際に父の死にあいますと、この世ではもう二度と父に会えないという悲しみは深く、今まで学び、また話してきた先の言葉は一片の慰めにもなりません。ただ、父の…
親鸞聖人の師である法然上人は、七万遍あるいは八万遍のお念仏を日課としておられたと伝えられています。もし「南無阿弥陀、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と一分間に八十回ほどのお念仏をしたとして、七万遍ですと約十四時間半、八万遍ですと、約十六時間半…
仏法を聞き続けると、たいへんなことがことがわかってきます。たとえば、「罪悪深重」という言葉は、あの人よりも罪悪が重いとか深いとかいう比較をしているのではないということです。また「煩悩熾盛」は、静まっている煩悩が何かの縁で突然に燃え盛るとい…
たとえば、「私はどこから生まれてきたの?」「何のために生きているの?」「死んだらどうなるの?」という、おそらく誰もが一度は考えるであろう問いに応えるような情報は、日常生活のなかには皆無とさえ言えるのではないでしょうか。おそらく有史以来、問…
「ドンマイ」という言葉は、中学生の頃バレーボールの練習をしていた時、友達同士でよく使ったものです。私がミスをしたとき、「ドンマイ」と友達から言われ、反対に友達がミスをしたときは、私も「ドンマイ」と返したものでした。言うまでもありませんが、…
先頃の5月の連休は、概して素晴らしい天候に恵まれ、旅行日和だったようです。私もその恩恵に浴しました。青森へ行ってきたのですが、東北地方を縦断するように走る行きと帰りの新幹線の車窓から眺めた山々の風景は格別でした。春の芽吹き始めた木々の若葉…
4月上旬、ある県の廃棄物収集運搬会社の敷地内で、ごみの中から現金4200万円余りが見つかったというニュースがありました。県の警察署には、「あのお金は私のものです」という電話や問い合わせが相次いであったといいます。 単純に考えれば、廃棄の主は普通…
親鸞の言葉39:父母のような優しさ 釈迦・弥陀は慈悲の父母(ぶも) 種々に善巧方便(ぜんぎょうほうべん)し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり (釈迦と弥陀は、すべての人々を救ってくれる慈悲の父と母だ。手を尽くして、私たちが浄土に往生する…
ウォーキングに出かける公園の一角に墓地があります。開けて明るく小高い場所に100基ほどの墓が立ち並び、下方は住宅街になっています。その横には梨園もあり、決して寂しい場所ではありません。 子どもの頃は、墓地というと気味悪い場所というイメージが強…
先日久しぶりに福井に行ってきました。福井駅とその周辺が大きく様変わりして驚きました。圧巻は、駅前の広場に登場した実物大の3体の恐竜ロボットです。2体は3メートルくらいですが、1体は10メートルもあります。決まった時間に独特の動きとともに、迫力あ…
今年の春は寒くて、例年なら桜が早く咲くところでも、その開花宣言が待たれたようです。木々のつぼみが十分に膨らんで、今にも開きそうな様子なのに、小寒い中ではなかなか咲きませんでした。そんな中、いち早く春を感じさせてくれたものは、鳥たちのさえず…
親鸞の言葉64:毒を楽しむためではない 薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。(薬があるからといって、好んで毒を飲もうとするなど、あってはならないことだ。)(『親鸞聖人御消息』第二通) 阿弥陀仏の本願によって、衆生は…
親鸞の言葉63:悪友には気をつけろ 「つねに悪友(あくう)に随(したが)ふ」といふは、「悪友」とは、善友(ぜんぬ)に対す、雑毒虚仮(ぞうどくこけ)の人(にん)なり。(「つねに悪友に従う」というのは、悪友は善友に対する存在。毒まじりの善行を行う…
親鸞の言葉66:親子の縁を切る いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。(今は親と思うこともなく、子と思いも断ちきりました。)(『親鸞聖人御消息』第九通) この手紙は慈心房(善鸞)義絶状ともいわれる。多くの同胞のため、晩…
親鸞の言葉 72:自分は自分 この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。(念仏の教えを信じる人もいれば、謗る人もいるだろうと仏はすでに説いている。それゆえ私はすでにこの教…
下記は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(When I consider deeply the Vow of Amida, which arose from five kalpas of profound thought, I realize that it was entirely for the sake of myself alone.) の言…
(ところで、)この我というものは、自分の力で潰そうと思ったところで決して潰せるものではありません。如来さまの力によってはじめて潰れるのです。私たちが他力の信心を得るということは、如来さまの力で我が潰されるということです。我というものが如来…
(略)長生きすればするほど、いろいろ心配事が増えます。色々悲しいことが起こります。私の知っている人でも、八十五、六までは幸せだったみたいでしたが、その後息子さんが思わぬ事件を引き起こして、結局そのことで気苦労が絶えなかったようでした。長生…
(略)長生きしたいという願いならお寺に参らない人でもちゃんと知っていると思います。ところが、お浄土に生まれたいという願いは、仏法を聞かなかったら、絶対にわからないのです。長生きしたいということとお浄土に参りたいということとは全く違う願いで…
「信心のさだまるときに ひとたび摂取して すてたまはざれば 六道に輪廻すべからず」と唯円は書いています。信心がさだまり、弥陀の心光の中に摂取された人は、永い間やってきた六道の輪廻をもうやる必要はないのです。お互い長いことこれをやってきたんです…
(略)信心の生活は、この世とお浄土をつなぐ南無阿弥陀仏の橋を行くことです。この橋は娑婆から繰り出した橋ではなくて、お浄土から娑婆へ来ている橋です。お浄土から来た橋を渡れば必ずお浄土へいきます。こちらから架けた橋なら、どこへ行くやらわかりま…
NHKテレビのドキュメンタリー番組で、酒井雄哉(さかいゆうさい)という人(僧侶)の修行の様子を見て興味を引かれ、酒井氏の言葉の数々をまとめた本『一日一生』、『続・一日一生』を読んでみました。 酒井氏は比叡山に籠もり、天台宗の延暦寺に伝わる荒行…
いろいろな煩悩に苦しめられること以外に私たちの一生はありません。そういう身体を抱えた人間が、特別の修行によって煩悩を断ち、今生で仏のさとりを開くというのが即身成仏という真言密教の教えです。空海は『即身成仏義』という著書でこの観念を説き、自…
信心はもちろん私において起こることですけれど、それは、私の心の在り方じゃなくて、如来様の真実の心が私の方へ燃え移った在り方なんです。火が物に燃え移るようなものです。如来様の本願の炎、情熱の炎が凡夫の私に燃え移るわけです。すると、もとはしら…
我々は阿弥陀様の光明に照らされるから、一念発起して金剛の信心というものを阿弥陀様からたまわる。つまり我々が阿弥陀様の光に照らされたら、我々の心に自然に信心が生まれるのです。信心とは私が信じていると思っていることではなく、光に照らされてある…
光明は十方の衆生をすべて平等に照らしています。阿弥陀様の光明に照らされていない存在はこの宇宙の中にはひとりもいません。阿弥陀様の光明というと、阿弥陀様と光明とを別々に分けて考えてしまいがちですが、光明のことを阿弥陀様というのです。阿弥陀様…
☆ み仏のみ名を称えるわが声は わが声ながら尊かりけり(甲斐和里子) ☆ 生活の中で念仏するのでなく 念仏の上に生活がいとなまれる(和田 稠) ( We do not say the Nembutsu as a mere routine in our lives, but rather, we live our lives centered on t…