2021-01-01から1年間の記事一覧
俱会一処; 阿弥陀仏の浄土に往生して、浄土の懐かしい人々と共に一処に会同すること。( Those who carefully listen to the teaching want to attain enlightenment and be reborn in the Pure Land, and then they see good old people again in the Pure …
親鸞聖人は『愚禿鈔』に「本願を信受するは前念命終なり。即得往生は後念即生なり」と。力強いおよろこびが示されています。本願の名号を信受するとは、仏のお呼び声の届けられた今、温かい胸の中に抱きこまれ、摂取のみ手にかかえられ、「前念命終」迷いの…
蓮如上人は「アミダ如来の御袖にひしとすがりまいらせて」と言われました。現代に生きる私たちは何にすがって生きているのでしょうか。財産を第一としその生き方は快楽を求めているにすぎないのではないか。「東井義雄」という方の言葉に「明日がある、あさ…
無宗教の人は、人間が死んだら何も残らない無と考える。信心の人は、人間界が終わると同時に「おらが」という主体は仏の世界に生まれると頂く。その仏は常に行動する仏である。その代表的な活動を還相回向という。「煩悩の林に遊んで神通を現じて、生死の園…
古歌に「夢の世に 夢見て暮らす夢人が 夢物語するも夢かな」という歌があります。この世は、すべて夢であると如実に歌われています。この世を夢で終わらせないためには、仏教を聞くことが求められています。仏教では、せっかく生まれ難い人間に生まれても、…
『歎異抄』九条で、親鸞聖人はこのように仰っています。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)は捨てがたく、いまだ生まれざる安養浄土は恋しからず候こと・・・」(意味;果てしなく遠い昔からこれまで生まれ変わり死に変わりしてきた、苦悩…
「世界最高峰のエベレスト(標高8848メートル)の登頂を目指し、ふもとにあるベースキャンプにいたノルウェー人男性が新型コロナウイルスに感染したと、AP通信などが4月23日に報じた。男性は病院に搬送されて治療を受け、現在は退院しているという。いつ感染…
最近の朝日新聞(大阪本社)が、自治体トップの首長が相次いで新型コロナウイルスワクチン接種を受けたことを報じていました。10名前後の名が挙がっていました。果たして優先接種したことは公正なのでしょうか。 厚生労働省が示している優先接種の考え方では…
人間に生まれて 真理の声を聞かずに終われば 生まれてこなかったと同じだ。 (安田理深) 人間は何のために生まれてきたのか。それはお釈迦さまの「天上天下唯我独尊」という誕生宣言で明らかにされています。人間は独りにして尊ばれるいのちを持って生まれ…
私のよく行く広々とした公園の一角には、藤棚があります。今を盛りと、藤の花が枝垂(しだ)れて咲く姿に、思わず見上げてしまいます。 このように、藤と言えば「下がるほど 人が見上げる 藤の花」という歌があるのもうなずけます。 藤の花に教えられて、謙…
一日の空過(くうか)はやがて 一生の空過になる (金子大榮) 時間は、人々に平等に与えられています。その時をどのように有効に使うかは、その人によるでしょう。 子供の頃は、時はとても長く、その流れは遅く感じました。早く大人になりたいと思っていま…
[ 娑婆 ] 梵語サハー( saha )の音写。忍・堪忍(かんにん)などと漢訳する。釈尊が教化するこの世界のこと。この土の衆生は、内にはもろもろの苦悩を忍んで受け、外には寒・暑・風・雨・などの苦悩を忍んで受け、これらを耐え忍ばねばならないから、忍土・忍…
やり直しのきかない人生だが 見直すことはできる (金子大榮) 人間だけは、過去・現在・未来の三世を通して生きています。過去の出来事を愚痴ったり後悔して生きているのです。また、未来の生き方に不安や恐怖を感じるのが人間です。確かなことは、そういう…
無常だからこそ 今日一日がありがたい ( 伊奈教雄 ) お釈迦さまは、無常を説かれました。この世のすべて、常なるものは何もない。人間も生まれた以上は必ず死ぬのです。生きていれば年をとります。どんなに元気であっても病気になることがあります。生・老…
つい先日は雨が降り、風も吹いていました。満開だった桜の花びらが所によっては一斉に散り始めています。その花の命は一週間ほど、と短命です。 特に、この時期、新型コロナに見舞われている最中であり、新聞の報道によれば現在、国内での死者は9200人余、ま…
限りないいのちに遇って 限りある身を尽くす (金子 大榮) 仏教では、無量寿なるいのちを説きます。南無阿弥陀仏とは、無量なるいのちと光を持った仏に絶対的に信頼して帰依する名告(なの)りです。ところが、われわれ衆生のいのちは限りある身を持った寿…
「殺」の上に成り立っている日暮らし、 それがわたしたちの日暮らしである。(広瀬 杲) 仏教では、自ら殺すのと、他人に殺させるのと、どちらが罪が重いかと問います。また、知っていて殺すのと知らずに殺すのと、どちらが罪が重いかと説きます。常識的にみ…
死ぬ時に、一人ひとりが豊かな心で 死ねる社会が本当の豊かな社会。 (宮城 顗) 長寿社会をむかえた今日、どのようないのちをお生きるかが問われてきています。長生きすることはありがたいことですが、同時に多くのリスクを背負わされていくのです。今、年…
どんな現実の難関にあっても 耐えていける人間を生み出す。 それが仏法である。 (安田理深) 人生には調子の良いときもあれば、思うことがかなわないときもあるでしょう。わたしは十六年前、長女の自死という境遇に出遭いました。何故、どうして娘は自らの…
真のいのちは波及する (金子大榮) 最近は家族葬と称して、自分たちの都合で、葬儀を簡略化している傾向にあります。もちろん派手にする必要はありませんが、本当に亡き人のいのち、願いを受け継いだ葬儀になっているか疑問です。 略 かつて元検事総長の伊…
順誓(じゅんせい)が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられますけれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。御文章のお示しとは違うよ…
この世に生まれてきたかぎり 出遭わなければならない たった一人のひとがいる それは自分自身である (広瀬 果(たかし)) 【 『浄土真宗入門―親鸞の教え』 池田勇諦より 】 仏教では、私たちはこの世に生まれてくる時、阿弥陀仏から仏性(仏になる可能性)…
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらわれたり。(『一念多念文意』) 略 「凡夫」…
世間のものさしと仏法のものさしとどちらが大事か、どちらが有用かなどということはできません。また、どちらか一方を選ばなければならないというものでもありませんし、時と場所に応じて、両方のものさしを使い分けるというものでもありません。常に世間の…
弥陀の誓願不思議を信じたとき、そのとき私たちはもうお浄土への道のスタートに立ちます。成仏の道路は往生でありますが、その往生の道路は信の一念から始まります。だから、阿弥陀さまを信じて生きている人は、もうお浄土へ向かっているわけです。毎日毎日…
龍樹菩薩は「歓喜地」という境地を身証されたということです。歓喜地とは、菩薩の五十二位の修道の位階である十地の最初の位のことを言います。そうして、そういう境地から人びとに念仏の道をすすめられたのです。親鸞聖人は、「歓喜地は生成聚の位なり」と…
「願生心」とは「極楽に生まれたいという願い」のことです。このことに関して、大峯師は次のように書かれています 「願生心とはもともと、永遠に生きよと私に呼びかけられている如来さまの願心だったのであります。それは私が自力でつくれるものではありませ…
『浄土和讃』の勢至讃、(一一四)には、次の歌があります。 超日月光(阿弥陀仏の十二光の一つ)この身には 念仏三昧(ざんまい)おしえしむ 十方(じっぽう)の如来は衆生を 一子のごとく憐念(れんねん)す 『浄土真宗聖典 註釈版』P.577 如来方は衆生を…
「難思の弘誓は難度海を度する大船(思いはかることのできない広大な誓願は、渡ることが難しい迷いの海を渡してくれる大船である)」という言葉が『教行信証』の冒頭に書かれています。 この文を取り上げましたのは、最近あまり思い出すことがなかった言葉だ…
人間に生まれることが、如何に難しいかということを示す「盲亀の浮木」の喩えがあります。 「百年に一度、海面に浮かび上がる盲亀がたまたま海上を漂う流木に出会い、その木の穴に入り込んだ(首を突っ込んだ)という『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』の寓話…