2019-01-01から1年間の記事一覧
信心決定ということは、どんな人生の苦しみの中においても、如来に守られているという深い安心です。この決定がないと信心とは言わないのです。如来の本願を信じるとは、どんな絶望の中でも生きてゆけるということです。絶望とは自分の前にドアが閉まってい…
お釈迦さまはこのように言っておられます。「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かって、この身を度せん」 人間に生まれることも、また仏法を聞くことも難しいことの譬えに“「…
五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし(五十六億七千万年後の弥勒菩薩の出現を待たなくても、真の信心を得て念仏する人は、この機会、往生の際に成仏できます) 「正像末和讃」 釈尊の次に地球上に仏とし…
お念仏ということはとても大事です。法然上人は称名念仏を大事になさって、一日に六万遍もお念仏をなさっていますけれども、これは決してたくさん称えたら往生するということではありません。たくさんお念仏を称えたら往生するというのなら、称名が自分の功…
今月の13日は中秋の名月でした。晴れた夜空に浮かぶ満月が、こうこうと辺りを照らしていました。自ずと「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ(法然上人)」という歌が思い浮かびました。 月の光は辺り一面を隅々まで照らしますが…
とりわけ仏教の問題は、人間としての自分の問題ではなくて、衆生としての自己そのものの問題です。自己そのものは単に人間とはいえないでしょう。われわれはこの世では人間という形相をとっていますけれども、自己そのものはいろいろな可能的な存在の形相を…
『往生論註』(曇鸞和尚)には、どうして易行道でなければならないかという理由が書かれています。難行道がどうして難しいかといいますと、私どもが本質的に凡夫だということはもちろんでありますが、ただそれだけではありません。もうひとつの理由に、私ど…
念仏往生の道では戒律はすべて不要だし、善根功徳を積むことも要りませんから、易行道であります。 それではそれだけでよいかと言うと、決してそうではありません。とても大事なことが一つあります。それは、この私のような罪悪深重の凡夫を、そのまま救うと…
自分は学歴も、地位もないと嘆く人がいます。しかし、それがどうしたというのでしょう。 (略) 人間はオギャーと生まれたときは、文字どおり裸です。何も身につけずに、お母さんのお腹の中から生まれてきます。生きている間に、努力して出世し、お金を儲け…
一期(いちご)の大事、ただ是(これ)にすぎたるはなし(一生の中で最も大切なことは、念仏の他にありません)『末燈鈔』 “一期”といいますのは、“一期一会(いちごいちえ)”というときの一期ですから、一生、と理解してよいでしょう。 人間の一生にとって…
富有柿の苗木を植えてから6年、昨年たくさん実をつけたせいか、今年は一個しか実がなっていません。そのため、木の葉の消毒もせずにいました。するとどうでしょう。ほんの数日前、葉っぱがかなり食い荒らされているのに気づいたのです。 よ~く見ると、例の…
悪性(あくしょう)さらにやめ難し こころは蛇喝(じゃかつ)のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮(こけ)の行とぞ名づけたる (悪いことは一向に止められず、心は蛇やサソリのようです。修行や善行も何の役にも立ちません。それらはいつわりの行にすぎ…
先日、久しぶりに長男宅を訪れました。長男家族は雄のポメラニアンを飼っているのですが、小型犬でとてもキュートです。愛称は蓮(れん)、現在15歳で、人間でいうと80歳に近い年齢だとか。ひところと比べると、茶色だった毛が白っぽくなっていました。近頃…
悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の太山(たいせん)に迷惑す (悲しいことに、愚禿親鸞は、愛欲の広い海に沈み、名誉欲と財産欲の深い山に迷って、不退転の位に入っていることを喜べません) 『教行信証』信巻 “割っ…
先月末より、ほとんど連日の猛暑日が続いています。そのため、熱中症で病院に搬送される人や、命を落とす人がたくさんあります。特に今夏は、その数が例年に比べて突出しているように思われます。 考えてみますと、私たちはこのような異常高温を初め、台風、…
自信教人信(じしんきょうにんしん) 難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)(自らも信じ、そして、人にも信じてもらうことは、最高に難しいことです)『恵信尼消息』 自分自身が信ずることすらなかなかおぼつかないのに、そのような信仰を他の人々に抱い…
先日、全英女子ゴルフオープンで、渋野日向子(しぶのひなこ)選手(20歳)が優勝しました。朝日新聞のトップページでの見出し、「渋野V 笑顔の強心臓」が目を引きました。「どんな時も絶やさぬ笑顔から、渋野につけられた愛称は『スマイリング・シンデレラ…
「まあさてあらん」とおおせらるれば(「ああ、そうだったのか」とつぶやかれました)『恵信尼消息』 越後の国を出発して関東に向かっていた親鸞が、上野(こうずけ)の国(群馬県)の佐貫(さぬき)に滞在していたときに、高熱に浮かされて、うわごとのよう…
釈迦如来・弥陀仏、われらが慈悲の父母 『末燈鈔』(お釈迦様と阿弥陀仏は、わたくしたちにとって、慈悲深い両親です) 仏教の開創者であった釈迦牟尼仏と浄土教で信仰する阿弥陀仏との関係を、まことに明確に表している言葉だと思います。 もし、釈迦牟尼仏…
存在は与えられているのであり、いつ奪われてもおかしくない 関根清三 神による世界創造という考えを否定しても、それが人に与えられているという事実は残る。そしてさらに重要なのは、与えられたものはいつか奪われるやもしれないという事実だと、聖書研究…
山をいでて、六角堂に百日こもらせ給いて 『恵信尼消息』(比叡山を下りて、京都の頂法寺、六角堂に百日間、お籠もりをされました) 六角堂というのは、京都にある頂法寺のことで、聖徳太子によって開設されたといわれているお寺です。 親鸞は、日本天台宗の…
祖師上人は弥陀如来の化身にてましますということあきらかなり『親鸞伝絵』巻上(親鸞聖人は、阿弥陀仏が変身して、この世に現れた人に違いありません) 化身というのは、仏や菩薩が人々を救済するために人間の一人としてこの世に現れた姿のことですが、応身…
最近の統計によりますと、日本の殺人事件の約5割は、親族間で起きているそうで、驚いています。そういえば、最近よく、親子間や夫婦間での殺人事件を耳にすることが多いように感じられます。 たとえば、何かの原因で親子間に亀裂が入るとどうでしょう。仲睦…
一人居て喜ばは二人と思うべし 二人居て喜ばは三人(みたり)と思うべし、その一人は親鸞なり「御臨末御書」(一人で仏法を喜んでいる人は、二人と思い、二人で仏縁を喜んで いる人たちは三人と思ってください。そのもう一人は親鸞です) 四国の八十八ヵ所を…
「他人を指さす時は、残りの指が自分をさしていることをわすれるな、と言った人がいる。まさにそのとおりで、人に向ける非難や誹(そし)りは、しばしば、自分自身にもあてはまる。私もそうだが、自省の苦い思いとともにこの警句にうなずく人は結構多いに違…
明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは <伝親鸞・出典不詳>(桜の花が明日も咲いていると思っていると、夜半(よわ)の嵐で散ってしまうかもしれません) この歌の作者がだれであったのか、ということは明らかではありませんが、一応伝説としまし…
朝(あした)には紅顔あって 夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり / 蓮如 親にとって一番の悲しみは、わが子に先立たれることではないでしょうか。いつかは酒を酌み交わしたい。花嫁姿に泣かされてみたい。心のなかのあたたかい気持ちが突然断ち切られてしま…
私たちが「自力」と呼んでいる厳しい行をなさる方に、いろいろお話をうかがいますと、「最後のところは仏さまの力に依(よ)っている」と、よくおっしゃいます。けれども、ギリギリのところだけではなくて、すべてを阿弥陀如来のお慈悲におまかせするのが易…
仏さまはどんな方であろうかということは、今日、次第にわかりにくくなってきているといえると思います。 (略) 困ったことは、仏という言葉を、全く違った意味に使う世の中の風潮があって、人間の遺体、亡くなった方の身体を、仏と呼ぶ習慣が非常に強いこ…
諸法実相 / 法華経 私たちは、元気なことを素晴らしい、お金があることを素晴らしいと考えます。一方で歳を取って、身体が衰えてしまうことを、自分の価値がなくなってしまったと思い悩みます。 もともと人の姿は歳を重ねるにつれて、移り変わっていくもの。…